店主の本音・プロが訪ねる気になる店

1999.10.04 189号 16面

前回(8月2日付第183号)では、老舗料亭「青柳」三代目としてのれんを守りながら、新業態の「婆紗羅」「basara」を創業する小山裕久店主と、日本における新しいフランス料理を確立する石鍋裕「クイーン・アリス」オーナーシェフが、ともに初代として料理事業に尽力する思いを語った。今回は引き続き、豊富な海外渡航からわが国の業界事情を危惧し、次代への期待を込めて、両者が相奮闘するさまを話す。

◆訪ねる人=「クイーンアリス」オーナシェフ・石鍋裕氏

(いしなべ・ゆたか)=フランス料理「クイーン・アリス」オーナーシェフ(東京都港区西麻布三‐一七‐三四、Tel03・3405・9039)

一九四八年横浜生まれ。一六歳で料理のおもしろさを知り、一生の仕事にしようと料理人の世界に入る。二三歳で全財産を持ち、あこがれのフランスへ修業の旅に。

五年後に帰国、「ビストロ・ロティーヌ」の料理長となるが、ヌーベルキュイジーヌの旗手としても注目される。三四歳で「クイーン・アリス」をオープン。現在は、四軒のレストランと食材輸入会社のオーナーとなる。また、最近では運輸省観光政策審議会専門委員やテーマパーク、郊外ショッピングエリアなどのコーディネートも手掛けている。

◆迎える人=日本料理「basara」店主・小山裕氏

(こやま・ひろひさ)=日本料理「basara」店主(東京都港区赤坂一‐一二‐三二、アーク森ビル2F、Tel03・5549・7518)

一九四九年徳島生まれ。大学卒業後、大阪で日本料理を修業。生家である料亭「青柳」に入ったのが二七歳。地元徳島の産物、郷土料理を見直し、料亭の洗練された料理に仕立てようと努力。「鯛の淡々」「ぼうぜの寿司」「贅沢わかめ」などの名品を生み出す。八三年、「徳島そごう」開店と同時に初めての支店を出し、以後、隣接して「婆裟羅」、東京に「basara」をオープンさせる。九二年には料理人育成から、平成調理師専門学校を設立、校長に就任。一方でパリのフランス料理上級学校で日本料理講習会、ホテル・プラザ・アテネで日本の味の祭典、ホテル・リッツで日本料理フェアなどを開催する。

うまいかまずい腕一本での勝負

小山 うちは私で三代目だが、私の立場からいえば、次の世代につなげていかなければならない。それに長年の世間における信用とか評価がある。できないことがたくさんある。

そういう立場から石鍋さんをみるとうらやましい。腕一本できたというか、料理人としてスタートを切っている。おいしい、まずいだけで生きてきている。私は若いとき、三代目といわれるのが嫌だった。

石鍋 それは持っているものの発言。

小山 私も一八代目の人に対し、「いいよなあ、創業四〇〇年といって」(笑)と思ったことがある。

石鍋 本人は「一八代の重みは三年の重みどころではない」と言っているかもしれない(笑)。

そうした世間の重みを受け止めながら全く新しい和食の店「婆紗羅」を出したんですね。

小山 世間の日本料理に対するイメージは強い。これは裏切れない。きちっと料理屋として出していかなければいけない。ただブランドが違うことで、何か違うんだと言ってもらえるものが作りたく婆紗羅を出した。

料理屋の息子が、自分で創業したい、好きな料理を作りたいと思ってやったのです。本店の横にモダンな感じで婆沙羅を出店したのが三〇歳の時。

石鍋 なぜ店名が「バサラ」なのか。

小山 大学時代からの好きな言葉でダイヤモンドの意。「バジーラ」というサンスクリット語で、この世で最も硬いものの名前からきている。

私は自由というのは「好き勝手」と解釈するが、それには責任がともなう。私は、これをサービスを含めての料理の世界で表現したかった。

日本料理では、酢の物は料理の最後に出るものという考えが強い。

ある時、季節だからとカニ酢を逆にして先に出したところ、「最初に酢の物とは、失礼だ」としかられたことがある。

また、料理屋でお菓子を食べてもらうことはほとんどなく、果物を出すころには皆さん二次会へ行くのが普通。

お客は「おれは料亭に来ている」という意識が強く、私なりの料理だけ突っ走っていたのでは受け入れてもらえない難しさがある。

石鍋 徳島へは何度か行ったが、いい仲間がいる。うらやましいと思った。日本の田舎には田舎の文化がきちっと生きている。その中で大将でやっている感じ。東京だったらどこかで息を抜かないと。

石鍋 私は小さいころ、おやじに「物事はなんでも一生懸命にやりなさい」と言われたことを思い出す。

性格的にどこか冷めたところがあるのか、本当に一生懸命やったのは、ほんの一年か三年かなと思うことがある。

今思うに、日本の社会をちょっと変えていかないと、自分が思っていることがいい形で表れないのではと。何のためにいろんな国を見てきているのだ、何のために一生懸命やっているんだと。

小山 今はそういうところに来ている。

石鍋 例えば、老後のことを考えると、貯金をしていないと不安。こんな国家であっていいはずがない。人間として生まれ、そのまま死んでしまうのはつまらない。何かいい形で日本を救える立場になれたらと思っている。

今までは、世の中すぐにお金だ、物だという形で動いてきた。ピュアな精神が押し曲げられている。ただそれに甘んじている自分に気付くこともあるが。

空気が悪くなると言いながら車に乗り、産業廃棄物のことを思い、できるだけストップをかけようとレストランから出るゴミを全部変えようとするが、やっぱり変わらない。

これを本当にやろうとしたら、きれいにできるはずだが、できると困る人もいる。利権がからみ複雑なものをはらんでいる。

小山 最近、石鍋さんは、日本をどうするかまで考えている(笑)。結局、石鍋さんが言っていることはみんなも考え言っていることだが、人類は遅々として進まない。

小山 料理業界は、日本料理で特に感じられるが、徒弟制度、だしを盗むなどという逸話が残っている世界。全部公開したらいい。腕のいいのが絶対上手なんだから。

石鍋 でも努力すれば七〇%はできる。中に一〇〇人か一〇〇〇人に一人は、感性が良く、努力をしなくてもできてしまう人間もいるが。

小山 日本人は根性論を言う。それをやめ、体験させるシステム、訓練のシステム化を図ればいい。このシステムはある種のノウハウであり、戦略でもある。

ところが、今までの外食産業は、この何十年間泥沼に入り込んだように失敗してきた(笑)。それは、セントラルキッチンでチンすればパートのおばさんでもできる料理を開発しようとしたこと。能力のあるヤツは要らないと。

これは何かというと、コスト競争。いかにもうけるかです。例えば農薬を減らすのがもうかると思えば減らす。そうではなく、理念をもって安全と幸せとおいしさのためにするんだという意識をもちたい。

石鍋 小山さんは昭和30年代から40年代にかけて日本料理なのにいろいろな国を回っているが、外国を見るとそれだけ刺激を受ける。全然違った国に自分の身を置くと、日本は少し違うんじゃないか、もう少しこうならないかと、いろいろわかってくる。

小山 フランスへ行けば、料理人の地位の高さを感じる。アメリカも同じ。

翻って、日本ではどうか。われわれ料理人は大切にされていない。これではいけない、どうかしたいと考える。

高収入になるとかではない。社会的に大切な役割を担っているんだと認めてもらうこと、これは非常にうれしいし、幸せに感じる。だから次に向かっても努力できる。

その姿を若い子たちが見て、自分たちがこの世で大切な職業で生きているんだと思う。こうした循環にしたい。

今はその扉が開きかけているが、私や石鍋さんがしくじると元の世界に戻りそうな気配がする。

この業界を良くしていきたい。一ヵ所が良くなれば全体が良くなるということだから、われわれの責任は重い。

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