ブランド誕生物語 讃陽食品工業「ピクルス編」(2) 米国視察で開眼

1993.09.06 35号 22面

《学者で職人の父》 輸入品だけに見られたバラ詰のスタイルを採り入れたのも、国内では当社が最初です。これにより、効率はさらに増し、価格も値頃となり、市場でもバラ詰製品が定着し始めたのです。

昭和36年、私が父の仕事を手伝い始めた頃、当社の製品の主な市場は横浜、神戸が中心で、船積みで東京や大阪に出荷されていました。企業として人手も増え、工場も徐々に整備されてきたとはいえ、あくまでも手作業にこだわっていたのが父でした。学者としての見識と、創業当時からすべて一人で手がけてきた職人気質からの誇りからか「手作業でないと品質が落ちる」というのが父の口癖でもありました。

「これでは注文に追いつくのに必死で、企業としては成り立たない」と父に対抗するように機械化を押し進めたのもその頃でした。私が二七歳、父はもう六二歳になっていました。

まず、最初に導入したのは「漬け込みタンク」でした。ご存じのように、ピクルスは、塩漬けしたキュウリを乳酸発酵させて作る。漬物と同様の自然食品です。それまでは四斗bMに一つひとつ、塩水にキュウリを漬け込み、発酵の具合いを見ながら、水抜きや塩水補充作業を行っていたため、人手もかかりロスが多いのが難点でした。そこで、コンクリート製の一tのタンクを六槽つくり、発酵状態の確認や作業が一度にできるようにしたのです。しかし、失敗は許されません。もしタイミングを見過すようなことがあれば、一bM、二bMのロスでは済まず、一t単位ともなると損害も大きなものとなります。最初の年は朝から晩までそれこそつきっきりでタンクを見回ったものです。

後日談として、昭和47年の夏、父と一緒にピクルスの工業化の本場であるアメリカを視察したのですが、その規模の壮大さに圧倒されました。

広大な工場敷地内に見渡す限り大きなピクルスのタンクが並び、しかも屋外に屋根もつけずそのまま放置されていたのです。塩水にキュウリを漬け込むと一ヵ月半ほどで「酸膜酵母」という、いわば乳酸菌の廃棄物が膜をつくり、これを取り除かなければならないのですが、屋外で露天にしておけば紫外線が自然に殺菌除去してくれるというのです。

こうしたアメリカで見聞したノウハウは初めて知るものばかりでした。一九三〇年頃からピクルスの工場生産が開始されていたアメリカの規模と、個人企業として創業した当社を比較することはできませんが、規模は小さくても全く同様にして自分の知恵と経験だけで当社を導いてきた父の努力を改めて感じさせられたものです。

父もまた、大規模な工場を目の当たりにして、私が強行した工場施設拡充と機械化の導入の必要性に納得してくれたのかもしれません。

アメリカ視察の翌年、父は亡くなりましたが、最後まで毎日のように工場を訪れては、麦ワラ帽子にゲタ履きといういで立ちでタンクを見回るのが日課のようになっていました。

「日本で最初に作った」製品はピクルスではなく、アンチョビ・オリーブなどもその一つです。先駆者として、自社製品にかける愛情も人一倍強いものでした。何よりも「本物の味を提供する」という創業者としての、こだわりは当社の企業理念として、今日もそのまま受け継がれているのです。 (続く)

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