どうしておいしい中華の普及は遅れた? 日本の家庭料理を考える
「日本の食・100年」を三カ年のテーマとして展開している(財)味の素食の文化センター(歌田勝弘理事長)のフォーラム第二弾のキーワードは「つくる」。その最終回「つくる情報」が先ごろ行われ、近年の日本の食作りに関して、それぞれの立場から興味深い意見交換がなされた。フォーラムの中から、とくに議論が白熱した「中華料理論争」の面白い部分を切りとってみた(敬称略)。
熊貪功夫(国立民族学樽物館) 原田信男(札幌大学) 明治後半から高等女学校の教育で洋食が盛んに取り上げられていた事実は大変面白いですね。ところでどうして一方の中華は取り上げられず、家庭科埋として馴染みのあるものになるまで時間がかかったのでしょうか。
江原 明治時期に作られた料理店の文献でも和食店に次いで西洋料理が出てきますが、中華は本当に少ない。支那料理は油っこく豚肉を多く用いることから、日本の家庭料理の惣菜としては喜ばれないと思っていましたという記述もあります。当時の高等女学校の教科書がはじめアメリカで作られたものの翻訳であったことも、洋食中心になった理由として考えられます。
奥村彪生(神戸山手女子短期大学) 明治38年の本の中で上段に中国、中段に西洋、そして下段に和風として、これを三風と記している記述がありますよ。しかし一般に中国料理が料理本の中に苦及したのは日清戦争が終わって状況が落ち着いた大正15年くらいからでしょうね。
石毛 ご飯がある、箸を使うなどわれわれの食文化に近いところを多く持つ中国料理の普及が遅れたのは確かに興味深い。明治政府の文明開花の時期、モデルとしたのが欧米だったという理由もあるでしょう。肉食の勧めにしろかなり上からの提案だったというムードがあります。その後、日清戦争に勝利したことでまた中国に対する評価が下がってしまったというのも否めないですね。中国の影響が強かったとされる沖縄では状況はどうだったのですか。
尚弘子(放送大学沖縄地域学習センター) 一四~一五世紀から中国・東南アジアと交流のあった琉球国では王が即位すると中国の使節団が大挙してやってくるという習慣があり、その準備として王は包丁人を中国に派遣して中国料理の学習をさせました。琉球内の食材をその技術であしらったのがいまの琉球宮廷料理です。宗教上のシバリがなく豚肉が使用できたことも内地と事情が違いますね。
森枝卓士(フォト・ジャーナリスト) 戦前、中華料理が支那そばなどという名称で急に受け入れられた経緯はどうなんですか。
山下光雄(慶応義塾大学スポーツ医学研究センター) 集団給食を整備するために日清戦争の後、食糧の担当者が中国へ行き効率的な状況を視察してきたんですね。狭いところで短い時間に豚を育て簡単に調理するやり方とか。そのデータを元に大正末期から軍部が中国料理研究会を開き家庭や料理屋に広まったようです。
石毛 中国に暮らす日本人が多くなったこともあるでしょう。それからやはり非常に経済的であると気付いたのも理由のようです。
3名のメイン講演者は「日本の食・100年 つくる情報」についてそれぞれ専門領域から研究成果を発表した。
石毛直道 国立民族学博物館館長
この100年間で日本の家庭の食生活は先進諸国の中で一番劇的に変化したといっていいでしょう。伝統的な料理法に欠けていた肉や油脂、乳製品などを取り入れ一見無国籍に見えながらも実は新しい日本料理を作っている。そういった形成期がまだ終わっていない。それが近代日本の家庭の食事ではないかと思います。
江原絢子 東京家政学院大学助教授
高等女学校の調理教育は明治36年の教授要目で内容が規定されましたが、そこから初期の調理教育と家庭への影響を伺うことができます。科学的な見方が導入されたのは昭和5年ごろから。18年から実習・実験も加わり、それが戦後の新しい制度にも取り入れられています。一方で重さや時間、温度といった客観点な指標をもとにした「つくる」教育は誰でも同じように調理できるメリットがある半面、強調しすぎると逆に人間の感覚的、総合的な能力をそいでしまう恐れがあると私は思います。
川島祐子 日本放送出版協会「きょうの料理」元編集長 「きょうの料理」は今年で四〇年。昭和32年、四人に一人がまだ栄養欠損という時代に創刊しました。その後昭和37年は手作り料理が流行。大型冷蔵庫が普及した昭和44年には冷凍食品の特集を企画するなど、時代の変遷に会わせ編集を展開してきました。昭和63年からはエネルギーとタンパク質量を、現在は時間も表示しています。最近は「二〇分でできる挽こ飯」がテーマ。「二〇分でなけれは勤め帰りには無理」という投書もあり、テキストに合わせた放送でもリアルタイムで作っています。