特集・イタリア料理:大衆化したイタリアン
イタリア料理がブームであるといわれている。しかし、このイタリアン・ブームは決して昨日今日出来上がったものではない。今は死語となった「イタメシ」という言葉は、すでにバブルの時期から使われていたし、現在のイタリアン・ブームを方向づけた店のひとつである恵比寿の「イル・ボッカローネ」は、すでに八九年の暮れにオープンしているのだ。
バブル経済が崩壊した九二~九三年ごろには、すでに専門店レストランとしての「イタリアン」というジャンルは、現在に近いかたちで確立されていたのである。では、なぜ「今」イタリアン・ブームなのか? それはマーケット(客層)の広がりである。
かつて、バブル期のイタメシとは、(主に)独身男性が女性をデートに誘うための決定打のひとつであった。しかし、今やイタリアンは、普通の家族が子供を連れて、あるいは主婦たちが連れ立ってランチを食べに行く店である。イタメシが死語になったのは、それが大衆マーケットに広がったからなのだ。
マーケットのトレンドはつねに先端的なところから大衆的なところへ降りてくる。まず、先取的な専門店レストランが、イタリア料理とは「アメリカから日本に上陸した」ピザや「麺類としての」スパゲティだけではないこと、そして、ワインとは決してフランスの専売特許ではないことを、じわじわと広め、やがて、それにマスコミが乗った。
テレビのグルメ番組は重要である。ただし、それは今どんな商品が売れているのかを知るといった単純な意味ではない。あるマーケットが、時間軸の中で、どのように広がりつつあるのかを見極めるためである。テレビというマスコミが飛び付くためには、かなりの大衆層が、そのトレンドを意識してからでないと意味がないからだ。
マーケットを見るときには、常に時間軸の中でとらえなければいけない。そうした時代の流れを前提にして見れば、例えば、イタリアン業界ではチェーンの先頭を走る「サイゼリヤ」はもちろん、FCシステムで独自のチェーン展開を図る「ジャカッセ」や、サザビー・グループの「キハチ・イタリアン」などにしても、正確に言えばイタリアンレストランではないことの意味が理解できるはずだ。
それは、大衆層をターゲットにして日本的にアレンジされた「イタリア風のレストラン」なのである。大衆レベルまでに裾野の広がったイタリアンは、もはや「イタリアの民族料理」ではなく、わが国でも家庭の食卓にのぼる料理へと変化する。
例えば、トマトとモッツァレラ・チーズで簡単にできるカプレーゼや、「パルメザン・チーズ」ではなく、本物のパルミジャーノ・レジャーノを使ったリゾットなどを食卓に出す主婦も増えてきているし、ポルチーニ茸(本物かどうかは別にして)やアーティチョークといったイタリア料理に欠かせない食材も、以前よりもずっと入手しやすくなっている。
今や、百貨店やスーパーの洋酒売場で、イタリアンワインを置かない店はないくらいだ。
こうした大衆化の傾向とともに、以前からイタリア料理をし好していた顧客たちは、逆に、より本格的で伝統的な、あるいは料理人個人の技術レベルが表現される最先端のイタリア料理を求めるようになる。マーケットは、広がりを持つことで深さをも求めるようになるのだ。
料理人自体も変わった。かつては、フランスへ行けないために仕方なく行っていたイタリアへ、今や、自ら望んで修業に行きたいという若い調理人が山のようにいるのである。
このように、マーケットを時間軸の流れの中でとらえることで、初めて、業界参入のチャンスや方針の変更といった戦略を正しく確立することができるのである。
ここ二〇年ほどの間に、フランス料理をベースにした洋食レストランの業界は、ファミリーレストラン(FR)の登場によって大きく変化した。
FRの全国展開によって、中途半端な技術・センスしかなかった洋食レストランや、FRと同じ大衆路線に走った専門店レストランは淘汰されたが、それと逆行して、かつては、ごく一部の客層を相手にしていた本格志向のレストランが、商品とサービスの深さを求める客層にウケて台頭しはじめる。
FRの登場によって、マーケット全体の底上げがなされ、真剣に料理に取り組もうとする次世代の調理人たちのステータスは、逆に向上したのだ。
イタリアン業界も、同じような流れの中で、次のステップに踏み込もうとしている。価格の決定権は、すでにチェーン店に移行している中で、中途半端な商品やサービスでは、もはや、多くのお客は満足してくれないという時代が、イタリアン業界にも訪れているのである。
(商業環境研究所・入江直之)