シェフと60分 帝国ホテル・村上信夫専務取締役総料理長

1996.03.18 97号 9面

ソ連抑留中、アイスクリームとリンゴ料理を作ったのが、明日とも知れぬ命の傷病兵に生きる勇気を与えた。「この時、コックを天命の職として決意」以来六五年になる。戦前からの料理人も数少なくなってきた。「愚痴をこぼすな、言い訳するな、仕事をするときは上機嫌でやれ」を信条に、気さくな態度と笑顔で、次代に向けて受け継いできた正統派フランス料理と村上流新フランス料理を広めている。

■フランス料理について■

「フランス料理は、ある時期にスペイン料理、中国料理、イタリア料理、ロシア料理の良いところを上手に取り入れ、今のフランス料理に仕上げられて来ました」

「新フランス料理は、日本の盛り付け技法をうまく取り入れ、新しい流れを生み出しています。フランスの料理人は立派ですね。良いところを学び、悪いところは捨て、取捨選択の繰り返しにより現代のフランス料理を完成させたのですから」

「料理はファッションと同じ。どんどん変わっていきます。これからのフランス料理は、オーソドックスなものに戻るでしょうね。お客が今までの料理に飽きたからです。あっさりしたものに飽き、おいしいものを求めています。料理は、おいしいことが第一ですから」

「温故知新、古きを師とするのは、私の大好きな言葉。古きを尋ねなければ、決して新しいものは生まれない。そういうこともなく、目先だけを変えていくから壁にぶつかるのです」

「現在の料理法は、ソテー、ロースト、ゆでる、煮込む、すべて完成しています。これからは、これをいかに上手にアレンジするかの時代です。そういう意味では、今後はフランスの食材を使ったものがフランス料理と決めつけず、もっと大きな気持ちで日本の食材や各国の食材を使ったフランス風のフランス料理がどんどん生まれるでしょう。これは良いことです。大いにやって欲しいですね」

■趣味■ 「ナイフ、日本刀、すずり、カメラなど、あげたらきりがないほどたくさんあります。カメラは古いものが好きで、コンテッサ、ライカ、コンタックス、キャノンといろいろです」

「撮るものは、風景が多い。さるところへヌードを撮りに行ったことがあるが、自分のカメラは使えず、向こうの汚いカメラを渡された。撮った後、現像・焼き付けも向こうでやるから自宅の住所を教えてくれと言う。家内にばれたら大変ですからそのままです」

これで村上カメラマン不朽の迷作は、世に出ずじまいだ。

〓自宅で作る料理〓 「私が作るのは、八歳になる犬のご飯です。家内の手料理を楽しんでいます。ご飯、味噌汁、漬け物、あと一品が干物でしょうか。肉より魚を食べます。肉はろくなものがありません。良い肉が入ると、私がステーキをやります」

〓スポーツ〓 「スポーツに入るかどうか、日本刀を二七振り持っていますが、試し斬りをよくやります。私の戦友に畳屋がおり、古畳を分けてもらい、二枚重ねにしてよく試し斬りをしていました。ところが、その人が亡くなり入手経路が途絶えてしまい、今は中止です」

「シャッと斬る心地は素晴らしい。忙しいとき、いやなことがあったとき、良い刀を取り出し、スポットライトをつけ手入れをしながらジッと眺めると、怒っているのがばかばかしくなります」

■好きな食事■ 毎日が味見の世界なのか、「何があろうとご飯、味噌汁、漬け物があれば文句なし。ご飯がなくても、パンや麺でも平気です。ただぜいたくいえば、温かいご飯があれば……」。温かいご飯がぜいたくとは意外。

〓酒〓 以前は晩酌に日本酒一本、ウイスキー一本、何でも一本飲むほどの酒豪。酒を飲み過ぎると暴れる癖があり、「昔、従軍中、酒を飲んで夜営に立ったとき、鉢巻きを締めて敵に立ち向かったほど」。

功罪を問えば、「酒を飲みながら話すと、人間、裸になり正直になります」と功をとる。

〓生年月日〓 大正10年

〓出身地〓 東京・神田

〓経歴〓 昭和8年、一三歳で浅草ブラジルコーヒーにコックとして入る。

「小学校五年生の時、オヤジとオフクロを同時に亡くし、生きていくためにコックになりました。オヤジが洋食屋をやっていたので跡を継いだかと思われるでしょうが、あれこれ考えて自分で選んだ道です」

銀座つばさグリル、新橋第一ホテル、糖業会館レストラン・リッツを経て、帝国ホテルに入社。以後、ホテルとともに、約半世紀にわたり幾多の変遷を経て今日に至る。

〓小遣い〓 カードはなし。すべて現金。財布のなかには、「少なくて五万円。常に一〇万円はないと不安で仕方ありません」。

都合が付かないときは借金をする。借金も信用のうち。

「いつまでに返すと言ったらまた借りしてでも返すこと。それが信用になるのです。現にアチコチ掻き集めて返したら、そんなにするならいいよと、また貸してくれました。借りたときのありがたさを忘れないこと、それが返す気持ちにつながるのです」

■健康法■ かつてシベリア抑留中は、零下三五度で当たり前。この時の体験が身にしみ、「今だに冬の下着が一枚もありません。パンツとランニングでとおしています。冬の北海道へ行くときも、オーバーだけが冬物で、下着は夏と同じです」。

文   上田 喜子

カメラ 岡安 秀一

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