シェフと60分 三井アーバンホテル銀座総料理長・桑原隆太郎氏

1996.02.19 95号 7面

レストランは今、二極分化しているという。システム化したFRか、一般レストランでも顧客管理、計数管理がしっかりし、コンセプトもはっきり打ち出しているところだけが生き残れるというわけだ。

自ら身を置くホテル内レストランでも、ホテル内の付帯設備ととらえるか、独立したレストランとしてとらえるか位置付けをはっきりさせる必要があり、「立地にあぐらをかいていては大変なことになる」と、危機感を抱く。

最終的に生き残れるのは、お客をリピートさせる魅力ある料理とするだけに、今までのホテルにあった固定観念、慣習を打ち破った独創性あふれる企画を打ち出す。

例えば、ランチメニューにサラダ食べ放題のサラダバーを置いたところ、予想外の集客を得、夜にもつなげてはと一人一〇〇〇円でワイン飲み放題の“ワインブッフェ”を設ける。これが、ワインと料理の一体化を図った新メニューに発展し奏功、コース料理などの注文数を増加させた。

「規模の大きなホテルでは、気持ちが守りになる。追う立場のわれわれは、同じものでは勝負にならないが、逆に違った切り口で、思い切った戦略が立てられる」と、かつてホテルへ入社したころの攻撃的精神は、今も健在だ。

もといたオークラを飛び出した原因が、「セクションチーフになったとしても一〇〇%自分らしさを打ち出せなかったから」と述懐するだけに、今の立場は、正に水を得た魚といったところ。

オークラ時代に、フランス人シェフのジャック・ボリー氏の「おまえは日本人のフランス料理のコックとしては腕がいいが、所詮は日本人が日本人のために作るフランス料理だ」という言葉に、その時はショックを受けたが、逆に、改めて日本の気候風土、四季による独特の食材が見直され、「これを生かしていこうと開き直ったら気が楽になり」以後、自らが良しとする方向に邁進する。

現在の和・洋・中とジャンルにとらわれないメニュー展開をしているのに対し、かつての先輩後輩のなかには「デパートの食堂」との批評もあるが、固定観念、慣習でやっていたのでは顧客を取り込めないとして、岐路に立つホテル・レストラン経営に一石を投じる。

牛乳とブイヨンの鍋、お好み焼きからヒントを得ての焼きそばをオムレツで包んだオムそば、自らが大好きというふろふき大根などホテルメニューになかったものをどんどん取り入れる。また、プロスポーツ選手団が泊まった時には、体の調子に合わせた、毎日飽きさせないメニュー作りに労をいとわない。

「メニューにないものを作るのは大変だが、みんなの喜んでいる顔を見るだけで報われる。次は何をやろうかと励みになる」。毎日湧き出るアイデアをどう調整するか、料理人の勝負を楽しんでいるかに見える。

「お客が何を欲しているかを知るには、お客に直に聞くのが一番」として、できるだけホールに出るよう心掛けている。これもオークラ時代にはできなかった自ら求める料理人の姿勢の現れだ。

「食を売るわれわれの仕事は、お客が気持ちよく食べたかおいしく食べたかの残った記憶だけで評価される。それほどシビアな世界。それには、お客が気持ちよく料金を払える環境を作るのがわれわれの使命」ととらえる姿は、街場のレストランオーナーと変わらない厳しさが感じられる。

最近の風潮として、食材に何を使い、どう調理したと明示するようになったが、「お客に聞かれもしないのに、こうした説明をしなければならないほど腕が悪いのか」と批判的。

もしお客に聞かれれば、どこそこのヒラメと答えなければいけない。またコック自身、食材がどこから来たのかを知らなくて調理はできないが、「フレンチのようにワインで蒸したり、油を塗ってグリルしたものに食材の説明をするのは愚の骨頂」と言いきる。

また、コックが市場に行き、そこでメニューを考える傾向にも「主戦場は調理場。なぜ調理場で考えられないのか」と、これをコックの勘違いとして厳しく指摘する。

時間があるとよく食べに行く。「フレンチは、つい、仕入れはいくら、トータルでいくら、食材を自分ならこれを使うなど経営者意識が働き、計算してしまう」が、食事が楽しめ、面白いのがイタリアンと中華という。

イタリアンは、今まで何がなんでもイタリア直送だったのが、最近は日本独特の食材を使い始めており、中華も同じ傾向にある。日本生まれの日本人の味覚を持った、華僑の二世三世が中国料理を作り始めている。

「使い方は基本を踏んでいるが、発想は自由で、より大胆。失敗を恐れずどんどんトライする若いシェフを見ると、こっちもやらなきゃと奮い立たせてくれます」

いつでも柔軟な発想でチャレンジする意気込みを持ち続ける人である。

文   上田喜子

カメラ 岡安秀一

昭和24年、東京生まれ。神学校卒業では就職も難しく、手に職を付ければ生きていけるとし、料理の道を歩む。一番安泰している帝国ホテルより追い上げるホテルオークラを選び、職に就く。

入社三年後、持ち前のトライ精神から自ら申し出てアムステルダムホテルオークラへ出向。人手不足から即戦力に加えられたのを「厳しかったがラッキーだった」と前向きにとらえる。

オークラでのオーソドックス一辺倒から脱し、自分の色をつけたいと一四年目に退社。以後、和洋折衷懐石料理の「えどこもん」、てんぷらの「稲ぎく」などで独自の発想力をもって店を運営する。「失敗したからこそ、結果が見えるようになった」と言わしめる数々の店で培われた経営ノウハウの集大成が今にある。

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