ようこそ医薬・バイオ室へ:ドーピングと貧血
昨年、イタリアスポーツ界を震撼させる事件があった。一昨年のツール・ド・フランスに次いで、イタリアの自転車ロードレースのスーパースターであるマルコ・パンターニが二年連続優勝を目前にして、ドーピングで途中棄権させられたのである。
パンターニは、平地ではそれほど強くないが、山岳ステージで猛烈なアタックを見せて逆転優勝するという胸のすくような試合展開で圧倒的な人気を誇っていた。
このパンターニが使っていたと思われる薬はエリスロポエチン(EPO)である。世界の巨大製薬メーカーに遅れをとっているといわれる日本の製薬業界にとって、数少ない世界的ヒット薬だ。
EPOは、骨髄の中で赤血球の赤ん坊である赤芽球前駆細胞から成熟した赤血球にする働きをする血液ホルモンである。よくマラソン選手が高地トレーニングを行うが、平地では血液中の血球濃度は四二%くらいが普通だが、一カ月の高地トレーニングを行うと血球濃度は五〇%以上になり、その分酸素を取り込む能力がアップするため、マラソンや自転車競技では有利に戦える。しかし、このEPOを注射すれば赤血球がたくさん作られるので、高地トレーニングを行ったのと同じ効果がたちまち得られるのである。
同じ疑惑はサッカーのセリエAでも起こっており、あるチームを抜き打ち検査したところ、二四人中四人の血球濃度が五〇%を超えていたという。
ところで、これらはドーピング検査でEPOそのものが検出されたわけではない。あくまでも状況証拠として血球濃度が基準を超えていたので、EPOを使ったのだろうという疑惑にとどまっている。疑惑にとどまる理由は、尿中のEPOを現在の技術では検出できないためである。
そもそも赤血球の産生を促進する物質が存在することは、一九五〇年代に貧血にしたウサギの血漿を普通のウサギに注射すると赤血球が増えることなどの実験で分かっていた。そして、このエリスロポエチン(EPO)と名付けられたホルモンが腎臓で作られ、血液中を循環して骨髄で作用して赤血球の増殖と分化を促すことが明らかにされたが、あまりに微量で働くためにEPOそのものを抽出することはできなかった。
ところが、再生不良性貧血という骨髄に異常のある患者の尿の中には通常の人の一〇〇〇倍のEPOが含まれていることから、一九七七年にキリンビールの宮家博士らは、この患者の尿を二・五トン集めて、ついに純品のEPOを約八ミリグラム精製することに成功したのである。つまり、ざっと計算すると、通常の人の場合には、三〇〇トンの尿中に一ミリグラムしかEPOが含まれないことになる。現在でもドーピングでEPOそのものが検出できないはずである。
虎の子の八ミリグラムのEPOを使って、その部分アミノ酸配列を調べると、その配列からコードする遺伝子のDNA配列を予測することができる。このキリンビールのデータを参考に、アメリカのベンチャー企業であったアムジェンがEPO遺伝子をクローニングしたのが一九八五年。その年には、キリンビールとアムジェンが共同で早くもハムスターの培養細胞を使った遺伝子組み換えによる生産系を立ち上げて動物試験を開始し、医薬品として厚生省に腎性貧血の薬として承認されたのが一九九〇年である。特に腎不全の透析患者には待望の薬であったことが、承認を早めた大きな原因であった。
このように、日本が世界に誇れる「いい仕事をした」EPOであるが、その時ドーピングに使われるとは誰が予想したであろうか。
極度の貧血である妻は、「私にもその薬欲しいワ」と言うが、鉄分が足りないと意味がないので、まずレバーを取ることを勧めている。
(新エネルギー・産業技術総合開発機構 高橋 清)