ようこそ医薬・バイオ室へ:格闘家アンディ・フグでさえ白血病には勝てず
今年の8月26日、K1格闘家の“鉄人”アンディ・フグが急性前骨髄球白血病のため亡くなった。三五歳であった。
K1は試合運びがスピーディーで、プロレスやボクシングにはない「美学」を感じるので、私もテレビでよく観るスポーツである。一九〇センチ、一〇〇キロ以上の大男たちに混じって、一八〇センチ、九八キロの小さなアンディが奮闘する姿に、随分勇気を与えられた人が多かったようである。妻もアンディのファンであったが、アンディのことを「ツルやなくて、カメやなくて、誰やった?」といつも言っていた。
で、アンディは7月30日にK1の名古屋大会を観戦後、スイスに帰国した8月上旬から高熱を出したが、14日にスイスの病院で受けた検査では白血球がわずかに多い程度であった。15日に再来日したが、やはり熱が続いたため、19日に東京・千駄木の日本医科大学付属病院で検査してみると、白血球数が通常の数十倍から五〇倍もあって、「急性前骨髄球白血病」と判明、緊急入院となった。そして、22日には容体が悪化し、自覚症状が出てからわずか一カ月も経たない26日に帰らぬ人となった。
「急性前骨髄球白血病」とは、通常骨髄では赤血球、白血球、血小板などに分化していく血液細胞(芽球)を作っているが、その白血球に分化する芽球ががん化して異常に増える病気である。骨髄はがん化した白血球細胞でほとんどを占められ、全身の血液中にも白血病細胞が蔓延する。白血病そのものは、一九世紀後半に、ドイツのウイルヒョウという有名な病理学者が発見し、白血病細胞がどんどん増えて、血液が白くなることから「白い血の病気」と名付けられた。わが国の白血病の発生率は年々増加していて、一九九五年には人口一〇万人当たり四・九人、年間約六一〇〇人が死亡している。青年層の死因としては、事故死に次いで第二位を占めるほどである。
ところで、白血病の原因であるが、他のがんと同様に、多段階の遺伝子の突然変異を経て発生することが分かっている。そうした遺伝子変異が集積した後に、生体の免疫防御機構をかいくぐって生き延びたがん細胞が白血病を発症すると考えられている。少し難しいが、ざっくり説明すると、基本的に多くの細胞で遺伝子は頻繁に傷ついているが、その傷が多くなると、悪い細胞が増えないように細胞自身が自殺するアポトーシスという現象がある。アンディの死因である急性前骨髄球白血病ではその辺がよく調べられていて、増えた白血球の染色体に一定の突然変異がよく見つかる。それは、ヒトの染色体は二二対の常染色体と二本の性染色体からなる計四六本の染色体を持っているのが、そのうちの一五番目の染色体と一七番目の染色体の一部が入れ替わるというものである。
しかも、入れ替わる場所も決まっていて、その結果、一七番目の染色体にあったレチノイン酸受容体遺伝子が正常に機能しなくなってしまうのである。活性型ビタミンAであるレチノイン酸を細胞内に取り込むはずのレチノイン酸受容体が機能しなくなると、先のアポトーシス(細胞自殺)が起こらなくなり、がん細胞である白血病細胞が無限に増えていくことになるのである。
この機構から推測して、初期の急性前骨髄球白血病では、ビタミンAの大量投与によって治癒する例が多くなっているが、アンディの場合は間に合わなかったか、別の原因による発症だったのか発表されていない。
また、慢性骨髄性白血病についても多くの知見が集められ、チロシンキナーゼというリン酸化酵素ががん遺伝子を活性化することが分かってきた。そこで、このチロシンキナーゼにカパッとはまって抑制するような薬剤の設計をコンピューターシミュレーションによって行い、新薬を開発したという発表が今年の8月に行われた。チロシンキナーゼを抑制するとアポトーシスが誘導できるようで、二四人のうち二三人のがんが消えるという劇的な効果があったという。
アンディはファンへのメッセージの中で、「今度の敵は私がこれまで闘った中でも一番の強敵です。しかし、私は勝ちます」と言っている。あまりに進行の早い厄介な病気であったために、鍛え抜いた格闘家でさえ今回は勝てなかったが、加速度的にバイオの研究が進んで、人類が多くのがんに勝つ日はそんなに遠くない気がする。
(新エネルギー・産業技術総合開発機構 高橋 清)