忘れられぬ味(53)スターゼン・鶉橋誠一取締役社長「かけそば」
還暦を迎えて、私にとって〈忘れられぬ味〉は、思い出とともに沢山ある。
私が、小学校に入学したのは昭和22年で、終戦直後の食料難の時代だった。外で食事をする機会など、全くなかった。
小学校四年の時、母に、初めて兄弟が揃って、家の近くのソバ屋に連れて行ってもらった。
母が店で注文したのは、全員に「かけそば」。子供達には、みな初めての味だった。こんなに美味しいものが、世の中にあったのかと、感激したのが今でも忘れられない。値段は、確か一杯四五円だったと思う。
中学の時、数人の友人達と、高尾山にハイキングに出かけたことがあった。その時、父が食肉関係の仕事をしていたので、まだ世の中では珍しい「ウインナーソーセイジ」を、持たせてもらった。もちろん、私にも友人達にも、初めての食べ物だった。これまで一度も触れたことのなかった西洋風の味と香りには、子供なりにびっくりしたことが忘れられない。
やがて、学校を出て社会人となり、今日までには国内各地や海外も含めて、数え切れないほど多くのお店に出会うことができた。
この中で、二〇年ほど前からお世話になっている、新橋の「たかまつ」という小料理屋の味は、素晴らしいものの一つである。すべての料理を、客の見ている前で作るので、そのできるまでの時間が、また楽しさとなってくる。
真偽はともかく、明智光秀が考案したという、柚の中身をくり抜いて、八丁味噌・栗・胡桃などを入れた〈ゆべし〉とか、自家製の〈からすみ〉などの絶品にお目にかかることもある。
先代は、料理を作る基本を大事にする人で、仕事には厳しかった。そのためか、店は今日も見事に、先代の味を引き継いでいるのは嬉しい。
先代が元気なころは、千葉県大原でとれた直径三〇センチメートルもある、あわびを秘伝のタレで長時間じっくり蒸し上げた〈蒸しあわび〉が、名物の一つだった。それは、噛めばほど良い歯ごたえと、口いっぱいにフワッと広がる滋味で、一緒に出してくれる「肝」を、ツメにつけて食べるのは、天下一品といってよい。
先代が亡くなった今、この「蒸しあわび」だけは、お目にかかることができなくなったのは残念だ。
これからも、いろいろな味に巡り会うことだろうが、料理の味とともに、一緒に食べた人や雰囲気などが重なって、思い出の味、忘れられない味が、作り上げられるのだと思う。
(スターゼン(株)取締役社長)
日本食糧新聞の第8859号(2001年6月18日付)の紙面
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