「あきたこまち」新米を毎月収穫めざす、熱帯のタイで日本米の生産に挑戦

顔の見えるあきたこまち栽培を行っているソンポンさん=タイ・チェンライ県で小堀晋一が10月13日写す

顔の見えるあきたこまち栽培を行っているソンポンさん=タイ・チェンライ県で小堀晋一が10月13日写す

一面に青々と広がる稲穂の海。順調に生育すれば、稲刈りまであと2ヵ月と少し–。ここはタイ最北端チェンライ県にある水田。植えられているのは、日本で品種改良され誕生したおなじみの日本米ブランド「あきたこまち」だ。

年間を通じてのコメ作りが可能

田んぼを管理するのは、日タイ合弁の農業生産会社「米福&エイオス(タイ王国)」。この場所を含む第3期の水田計500ライ(1ライ=1600平方m)の運営は今年始まったばかりで、来年8月ごろから本格的な出荷が始まる予定だ。まずは、バンコクや第2の都市北部チェンマイの飲食店やスーパーなどの流通ルートに乗せたいとする。

田んぼのすぐ脇に立つブロック造りの管理棟兼精米所で寝食し、近くにある生産委託農家との橋渡し役を務めるのは、同法人のゼネラル・マネジャーでタイ人男性のソンポンさん(32)。「朝起きて稲の状態をすぐに確認できる。市街地に住む必要は全くない」と真っ黒に焼けた笑顔で話す。その脳裏には、1年の農期を細かく分割して立てた綿密なあきたこまち生産の事業計画が刻まれている。

顔の見えるあきたこまち栽培を行っているソンポンさん=タイ・チェンライ県で小堀晋一が10月13日写す

日照量や気温など日本の夏場に似ているとされるチェンライの気候。これまでもタイ産日本米といえば、同県をはじめもっぱら北タイ一円で栽培が行われてきた。しかし、一般的なタイ米と同様に出荷時期は年間を通じてほぼ固定され、貯蔵や流通といった技術的な問題から風味やおいしさの点でも収穫後の劣化が指摘されてきた。「いつでもおいしい日本米をタイ国内で提供できないか」。ここにソンポンさんたちの取組みのきっかけがあった。

熱帯にあるタイでは年間を通じてのコメ作りが可能。1回の田植えから収穫までは115~135日が平均的で、うまく生産すれば同じ田んぼから1年に最大で3回の収穫ができる。そこで考えられたのが生産時期を田んぼごとに少しずつずらし、年間を通じて常に収穫期にあるといった田んぼ作りだった。

毎月のように収穫期が訪れれば、消費者や市場には常に香り豊かな“新米”を届けることができる。栽培作業を請け負う近隣農家の一時の労働量も軽減され、稲への監視の目も行き届きやすくもなる。そして何よりも、常に仕事があって安定的な収入にもつながる。

「そのためには、コメの計画的な受注体制が欠かせない」とソンポンさん。栽培の方針、田んぼの現況、稲の生育状況といった情報をリアルタイムで発信。「生産者から流通、小売、そして消費者まで顔の見える生産体制」が必要と奔走した。最終消費者から受け取る年間計画もめどが付いたことから、タイ国内向けの事業化に着手することにした。

すでに隣接するパヤオ県の第1期と第2期の田んぼでは数年前からあきたこまちの収穫は始まっており、シンガポールやマレーシアなどの国外向けに輸出されている。日本米の中でも粘り気が少なく粒が大きいなど長粒米に似た食感に、人気もうなぎ登りだ。タイでも和食や寿司店などで需要があるとみている。 安全・安心のニーズを受け、一部では有機栽培も始める予定だといい、さらに忙しい時を過ごすソンポンさん。「農家も中間事業者も最終消費者も、皆が潤える生産体制をタイで構築させたい」と話している。

日本の大学に留学し就職、コメ作りにも触れる

タイ最北端チェンライ県などで、日本米のあきたこまちの生産を行っている日タイ合弁の農業生産会社「米福&エイオス(タイ王国)」のゼネラル・マネジャーを務めるソンポンさん(32)は、中部サラブリー県の農家の長男。今年61歳を迎えた父は、農耕期はタイ米作り、休耕期は大工をして3人の子どもたちを育て上げた。2008年に妻に先立たれた今も、一人で農作業を続けている。

タイ最北部チェンライでは日本米づくりが盛んだ=タイ・チェンライ県で小堀晋一が10月13日写す

「貧しい家だった」とソンポンさんが話すように家には大学に進学する資金はなく、高校卒業後は就職して家計を支えるのが当たり前だと思っていた。そこに舞い込んできたのが、高校卒業者向けの海外留学制度の知らせ。全国77都県内のアンプー(日本の郡に相当)から成績優秀者を毎年1人ずつ、日本を含むアジアや欧州など海外に国費で留学させるという制度だった。

「まさか自分が」と思ったソンポンさんだったが、晴れて選考を経て東京の日本大学理工学部に留学。幼いころからの機械好きで、大学では機械工学を専攻。自動車のエンジン構造などを学修した。夜間と早朝は生活費稼ぎのためのアルバイト、昼間は学業に没頭。タイに一時帰国したのは母親の葬儀の時だけだった。

日本の工具メーカーに就職後、縁があって日本のコメ作りにも触れた。品質を追求し、緻密で計画立った生産方式にため息が出た。「これがタイで採り入れられたなら」とは感じたものの、まだ具体的な行動までには至らなかった。

8年ぶりにタイに帰国したのは2015年のこと。当初は何をしてよいのか分からず、単発の通訳を請け負うなどで生計を賄っていたが、いつも脳裏にあったのは「タイのみんなのためになっていない」という思いだった。

そんな時に人を介して出会ったのが、チェンライの隣県で日本米などを生産していた中華系タイ人のヨンさんだった。タイ産果物の輸出も手掛けるなど国内の農政にも通じた人物。直ちに駆け付け、“弟子入り”を志願した。

日本の生産農家や流通業の専門家らの紹介を受けると、満を持して日本側との合弁企業として一緒に立ち上げたのが米福&エイオス(タイ王国)だった。最高経営責任者(CEO)にはヨンさん、自身はゼネラル・マネジャーに就いた。

ソンポンさんらが目指すコメ作りは至ってシンプルだ。「どうしたらタイの農家が潤って、国が発展するか」。その活路を、まずはシンガポールやマレーシアへのコメ輸出に求め、そして現在はタイの国内販売にも求めようとしている。

品質管理を万全とし、鮮度の高いまま末端消費者に届く仕組みを構築すれば、日本からの本場米にも負けないとの自負もある。そのためには寸分の寝る間も惜しんで、農家や流通業者との関係づくりを進める毎日だ。

ソンポンさんが日本で学ぶことができた海外留学制度は、政権交代が原因でわずか4年しか継続しなかった。現在は別の制度があるものの、貧しい農家の子どもたちにはチャンスはつかみにくいシステムとなっている。「タイの農家は本当に貧しい。父が栽培するコメもすべてが出荷向けで、自分で口にすることすらできない。そんな現状を少しでも変えたい」(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)

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