食品企業におけるパーパス経営の先進事例:キリンホールディングス・磯崎功典会長CEOに聞く
◇キリンホールディングス株式会社 代表取締役会長CEO 最高経営責任者 磯崎功典氏に聞く
インタビュアー:新井ゆたか/加藤孝治
同席者:溝内良輔(キリンホールディングス株式会社 常務執行役員)
インタビュー日:令和6年1月19日
インタビュー場所:キリングループ本社(東京都中野区)
※社名・役職はインタビュー当時のものです。
* * *
新井:今回、社長にお話しを伺いたいのは、会社の中でどういう形でパーパスを作り上げているか、形になるまでにどういうご苦労や工夫があったのかが1点目です。また、パーパスに、社長のビジョンをどういう形で落とし込んでいったかというのが2点目です。さらに、パーパスに対し社員がその方向を向いていくか、どういう形でパーパスへのコミットメントを作り上げていくかお聞かせください。
磯崎社長(以下、敬称略):最も重要なことは、トップが覚悟を持って最後まで旗を振り続けるということです。トップのコミットメントがなくて、下から上がってきて実施されているものは、だいたい数年でなくなっていきます。トップが本当に最後までこれが一番大事なんだと言い続けてくると、社員あるいは社外の人にも本気感というのは伝わっていきます。最初はみんな思いつきだろうって考えるのでしょうが、そんなことはないんだということを言い続けること、これがものすごく大事です。理念の浸透というものは全てそこにかかってくると私は思います。私たちはよくCSV経営と言ってますが、収益を生み出すものでないと長続きはしないんですよ。いいことをやっていてもそれが事業にどういうふうに結びついていくのかということです。
社会課題解決につながる強みを見つける
磯崎:CSVには2つの価値創造があります。一つは社会課題の解決で、もう一つは経済的価値の創出ですよね。経済的価値の創出だけを考えると長続きしないです。今の若い人たちでは、ものすごく社会を見ています。資源一つ取っても、有限であると昔から言われてますけど、温暖化とかも含めて、これは大変なことだという意識が強いです。昔みたいな高度成長は期待ができないとなってくると、やはりこの社会に対する課題をどうするか、経済的に社会課題解決と企業価値創出の2つをやらないと長続きしないと思います。企業は持続的に成長しなければいけませんから、今のお客様、例えばビール事業で言えばヘビーユーザーである40代だけ見ていてもダメですね。その先の30代、20代、場合によっては10代、もしかしたら今の10代より先の世代も見ないと。この人たち、Z世代とかアルファ世代とか言われてますが、そういう人たちがどのような価値観を持つようになるかということをくみ取れなければいけません。
私たちの頃は、帰るときはもうみんなビールを飲むような気持ちになっていて、上司も行こう、みんなで行きましょうとか言いあっている、こういう時代ですよね。しかし今は、まず個人の価値観が変わってきてる。みんな自分でやりたいことがずいぶんあるようになりました。あるいはWHOがアルコール問題を取り上げ、最近は厚生労働省もアルコールの弊害を注意喚起するようになっている。こういう風になってくると、もうアルコール事業だけやってるわけにはいけないなと考えるわけです。だから今、必要が発明の母とも言いますが、このままでは難しいなというのは、世界中のアルコールメーカーの経営者はわかっています。
そこでキリンホールディングスとして、自分たちの持っている強みを棚下ろししてみると、どうやら我々の強みは発酵バイオテクノロジーだなという話になりました。それで40年前にこの技術を活かして医薬事業に参入したのです。これまで、多くの企業が医薬事業に参入してますけど、なかなか成功してないです。
新井:なるほど。確かに他社さんを見ると、参入しても切り離したりしている例はありますね。
磯崎:自分たちの技術だけでは難しいので、別の会社と組む必要があると考え、三共と一緒に販売したのが腎性貧血治療剤エスポーおよび白血球減少症治療剤グランです。これが最初で、その後も大きな医薬品を作ってきました。さらに我々は強みである発酵バイオの研究開発力を使って、新たな事業はできないかと考えました。今の日本の状態を見ていると、医療費の負担は限界です。生産年齢人口がこれだけ縮小している中で、どんどん国債を発行するというわけにはいきませんよ。誰がそれを最後に負担するんですか。少子高齢化が続いているわけですから、できるだけみんな病気にならないように未病の領域に取り組むというのはどうだろうか、そのような議論をずっとしてきました。そして、最後にヘルスサイエンスに参入しようということになってきました。
CSVに関して見ると、世界中のどこでも環境問題あるいは地域社会・コミュニティの持続、それから、アルコールの乱用はやめましょう、適正飲酒にしましょうという話があるわけですね。これは世界のアルコールメーカーみんな言っています。これに加えて、私たちが新たに取り入れたのが健康という社会課題です。アルコールと健康は必ずしも一致しないけれど、そこに取り組みます。
新井:必要は発明の母といいますが、強みを活かすということが根本にあるのですね。
磯崎:アルコールメーカーが医薬で成功した例というのはほとんどないです。キリンはユニークで、スタンフォード大学のチャールズ・オライリー教授が『両利きの経営』の巻頭に、ビール事業をやりながら医薬で成功した事例としてキリンをあげています。私たちは40年前(80年代)に医薬事業で成功しました。その頃から合計特殊出生率に基づいて、当時の経営者はビール市場は縮小すると言っており、社内で話題になりました。
加藤:キリンがガリバーでダントツの頃ですよね。その頃に考えてらっしゃるんですかね。
磯崎:1970年代、ちょうど私が入社する前ぐらいの時からですね。公正取引委員会がキリンを企業分割の検討対象にしていた時なんです。
新井:あまりに強すぎるので独禁法に抵触すると。
磯崎:それです。それが1970年代だったんです。その頃がまず大きなターニングポイントというか。
加藤:社会の意識の変化があったわけですね。
磯崎:そこで、このままでいくと、企業分割になってしまうと。大きいことは悪いことだというとらえ方です。
新井:ガリバーゆえの悩みというのがあったのですね。
企業価値が上がるパーパスを決める
磯崎:そこで多角化を始めようよと言った中で、医療とか健康とかいろんなところへひろげていくこととなりました。新規事業はたくさんやりましたが、なかなか成功しないです。我々が小岩井乳業の販売権を持ったのも1976年です。あの時期に多角化を進めていたんです。
新井:他社の多角化と歴史が違うということですね。
磯崎:ちょっと立ち位置が違いますね。ウイスキーを始めようとかね。懐かしいキリンシーグラムのロバートブラウンとか、そういうときがあった。で、その後に人口動態から見てどうなんだと。それで、医薬事業に入ってきた。
今は、市場縮小に加えて、社会からプレッシャーがかかっている。WHOは非感染症の要因として喫煙やお酒の飲み過ぎ、運動不足、および不適切な食生活を指摘している。私たちは、この声が小さい頃から注目していましたが、段々大きくなってきました。スウェーデンの活動家のグレタ・トゥンベリさんなどを見てみると、今の状況では若者が、「さあ、20歳になったから酒飲むぞ」とか「ガンガンタバコ吸うぞ」というような感じではないですよね。
加藤:最近のESG投資家を取り込むために、SDGsとかCSRに取り組むという「投資家目線」での発想、あるいは企業価値を上げるためにどうするかという発想から、パーパスを決めていくという発想に切り替えていくということですね。
磯崎:おっしゃる通りです。次のステージに変化したきっかけとして、WHOからの圧力がかかってきたということが挙げられます。我々のビール事業についていえば、このカテゴリー(酒)は絶対残るでしょう。ただ、これが大きく伸びていくことはないでしょう。いろんな国、例えばアイルランドなんかでも、アルコールに対する規制は厳しくなってきてます。かつてはJカーブとか言って、多少アルコールを飲むことは健康にいいんだと言われてましたが、最近はそれを否定するような論文まで出てきています。そうしてくると、だんだん若い人たちがアルコールに対する抵抗が強まり、お酒を飲むことがあっても、酔っ払うくらいたくさん飲むというようなことはなくなっています。そのような時代の変化があっても、簡単に新しい事業には入れないですよ。やっぱり自分たちの持っている強みで何とかできないかということを考えて、私たちはヘルスサイエンスの方に来てるということなんです。ですから、ESGの意識から入ってきたっていうことではないのです。
新井:面白いですね。独禁法で多角化しないといけないという状況で、いろいろやってみた。さらにアルコールのネガティブな評価が高まってきた中で、より選択と集中を進めた。自分たちの根っこは何なのかと考え、バイオや、医薬品へと取り組むのですね。そして、いろいろやってきた中で東日本大震災のときにCSRじゃなくてCSVという方向に向かい、自分たちの事業を組み直していくということですね。そうして、会社が向かう方向を時間をかけて模索しておられる。2011年の東日本大震災で御社の仙台工場が被災したという事件が起きますね。その時点で、社会的な取組みをやっていく中で限界があるなというところに気づかれたという話を聞きました。
社会的価値と経済的価値を両立
磯崎:東日本大震災の時に私たちは、ビールでも氷結でも1本当たり1円のお金を消費者の方から募ってそれを被災地向けの復興にあてました。ところがその時にある社外取締役の方が、「磯崎さんいいことやってるよ、だけどこれは株主にとって何のメリットがあるんだい?」と聞いてきたんです。
新井:厳しいお言葉ですが、株主が評価されないということを言ってくれたんですね。
磯崎:フィランソロピーだけやっていて、株主は喜ぶんですかという単純な質問を向けられたということです。
加藤:素直な質問だったんですかね。
磯崎:「そうか、いいことやっているからキリンのイメージは上がるかもしれない。だけど株主はそれだけでは満足しないのではないか」と気が付いたんです。やはり「経済的な価値というのは見える形で出ている必要があり、かつ社会的な課題を解決する」、これであれば納得するよ、ということに気づき、会社の中でCSVを入れようと考えました。ちょうど私は2012年4月にキリンビールの社長になったのですが、その時にハーバード大学でマイケル・ポーター 教授と実際に会って、彼が提唱するCSVについて直接にお話を聞き、自分が求めているのはこれだと気づきました。ポーター教授のお話の行間をつかんで、改めて会社の取締役会で提案したんです。
トップが覚悟を持って最後まで旗を振る
加藤:社長は今日のお話の最初に、トップの覚悟が非常に大事だとおっしゃっていました。CSVを社内で掲げたとき、社内でどれくらいの方が理解されましたか。
磯崎:その時は、キリンビールとキリンビバレッジとメルシャンという会社を統括するキリンカンパニーという国内飲料事業のホールディング会社があったのです。その上にキリンホールディングスという会社があった。私はその時はキリンカンパニーの社長だったのですが、CSVをやりたいということをキリンホールディングスの取締役会にかけました。
その時に社内・社外の役員がいましたが、社内では基本的には反対でした。ただ、反対と言っても、猛反対って言うより、日本で誰もやってないのだから、みんながやってからでもいいのではないかという話でした。
新井:反応が日本的ですね。
磯崎:その時に後押してくれたのは社外の役員です。一人は国連グローバル・コンパクト・ボードメンバーの有馬利男さんで、もう一人は労働省出身で当時当社の監査役であった(2016年から取締役)岩田喜美枝さんです。この人たちは、「誰もやってないからやるんだ」という風に後押ししてくれました。マイケル・ポーター教授も「すぐキリンはやるべきだ」と言ってもらえて、社内でもマイケル・ポーター教授が言っているのかということで風向きは変わりました。
加藤:先ほど、社会課題の解決に取り組むことに対し「それをすると誰が喜ぶの?」と言われたと仰いました。そして、その問いかけに対応した結果、社長はCSVに取り組むこととされたんですね。それを社内外の取締役が評価され、企業価値の向上や、社内のモチベーションにつながるという形に展開していったというのは、まさに望ましい姿だと思います。
磯崎:CSVに取り組むことの難しさは、それを経営の柱に据えることはいいのですが、実態がなければ、それはどのようなものかが理解しにくいということです。みんな、頭の中でのイメージだけでは賛成できないのです。だから、みんながイメージできる「なるほど、これだ」というものを見せていく必要があるということですね。
加藤:言葉先行じゃなくてまずアクションという感じですね。
手の届かないことを実現する方法を考える
磯崎:私が、マイケル・ポーター教授に言われたことでよく覚えていることがあります。彼は日本の会社のコンサルティングの経験を通じて、日本の人たちはビジョンとか理念についてすぐ手の届きそうなことを考えて、そのビジョンに向かって達成しましたということが多いとのことです。ところが本当のビジョンというのは「宇宙に行くんだ。月に行くんだ」というくらいにできそうもないことを挙げるものだというんです。そういうことを考えて、「では、どうすればできるようになるのか」とみんなで考えるのが本当のビジョンだと。そして、日本にそれがないということはよくわかる。だからこそ、一番にそれをやらなくてはいけない。うんと道のりは長いかもしれないけどやるんだと言ってました。
加藤:ポーター教授の指摘は、とても興味深いです。御社は、その取組みを2012年にスタートさせたということですね。
磯崎:ポーター教授にお話を聞いたのが2012年。そして、CSVに関する社内プロジェクトをスタートしたのは2013年からです。スタートして10年経って、ようやく定着してきました。この10年間も、最初のままではなく変わっています。私も2015年にキリンカンパニーの社長からキリンホールディングスの社長になりました。
私たちの中で、長期的な視点で何を取り上げるべきか考え、(1)環境、(2)地域社会・コミュニティ、(3)健康、そして最も重要なテーマとして、(4)アルコール問題に絞り込みました。アルコールの販売・製造をしている我々として、責任を持たなくてはいけないということですね。この4つの社会課題に取り組むことを2017年に発表しました。さらに2019年には長期経営構想として修正しました。長期経営構想の中ではパーパスとして、環境、健康、地域社会・コミュニティ、そして一番ベースにある「ゼロ番地」としてアルコール問題を位置づけています。この形にして、長期経営構想と合わせて2019年の2月に発表しました。ですから、今のパーパスの形になるまでに、何回かの変遷を経ています。私はそのたびにソフィスケートされてきていると考えています。
新井:これまでのお話を整理すると、東日本大震災の経験があって、2012年に大きな方向を示されて、そのあとに2017年に、現在のパーパスの骨格となるいくつかのパーツが具体的なものとして出来上がってきて、それを全体的に括りなおしていく過程で、目指すものとそれぞれの考え方をまとめるハコが出来上がってきたということですね。
大きな方向を示されたところに、皆さんがハコになるであろうものを作ってきて、それをホールディング社長として磯崎社長が束ねたということで、理想的な家を完成させたのですね。
磯崎:社員からすると、「社長の言っていることは、こういうことなのか」と腹落ちする感じですよね。当社において具体例を上げれば、岩手県遠野市のホップです。地元の人たちと共同して作り上げた原材料を使って、クラフトビールを生産し販売している。これは地元経済に貢献しながら、経済的な価値を生み出しているといえます。ほかにも、長野県上田市では荒廃した桑畑をワイン用のぶどう畑にして、シャトーメルシャンとして売ることで利益が出る。こういう事例を見せることで、社員は「うん、なるほどこれか」と動けるようになるのです。
新井:今の社長のお話は、これから取り組んで行く企業の方々とか、どうしたらよいかと悩んでる方への非常に有益な示唆になると思います。これは、やっぱり社長が、細かくなくてもいいので、最初にビジョンを示すことが大事なのですね。最初から、御社のパーパスの絵にあるように「家を建てる」という完成形にならなくてもいいということかもしれませんね。
パーパスを作らなくてはいけないということで、慌ててコンサルを呼んできて、自社の状況を踏まえた「見取り図」を書くのではなく、大方針に向けていろいろやらせてみるというところから始めたということですね。パーパスでいえば、大きな方針を示し、いわば「この星に向かって何かやってみろ」といったうえで、しばらく経ってから、実は君たちがやってることを分類するとこんなことになるのではないか、というと社員たちもパーパスに向かう(家を建てる)ということが、社長が建てたものと考えるのではなく、自分たちが部材を持ち寄ってうちを作ったという気持ちになれるということですね。そうすると、その行動が継続することになるということでしょうね。
磯崎:社員一人一人が、自分たちが会社に貢献をしているという体験・意識を持っているということがすごく大事だと思います。われわれの考えているパーパスというのは、自社のポートフォリオそのものです。こうしなければ私たちは生きていけないんだという気持ちを共有することが大事です。だから、ポートフォリオの見直しということが、パーパスと一体化してるというわけですね。
加藤:御社がパーパスという言葉で表現していらっしゃるのは、抽象的なものから、もう一歩踏み込んで少し具体化させたところに設定しているというのは、今、社長が話されたような目的があるからですね。パーパスという言葉のほかに、理念というものもあります。御社のパーパスは、他の会社のパーパスと比べると、理念に近いイメージになるのでしょうか。
社会貢献実感が意欲を高める
磯崎:私が考えているのは、シンプルに「事業に結びつかないものは長続きしない」ということです。
加藤:「パーパス経営」という言葉について、具体的なイメージを浮かべにくく、その概念が長続きしないように言われますが、御社の示すようなレベルまで落として見せてやることで、社員は部材を自分でどう持ってくればいいのかということが見えてきますね。これをパーパスという表現にした方が定着するだろう、というのが社長の考えてることですね。
磯崎:おっしゃるとおりです。SDGsの17のターゲットも全部を実行することは難しいのでしょうが、健康とか環境問題、あるいは地域社会との関係となると、実際にSDGsのどこかに当てはまってくるのです。しかも、よく考えると、複数の目標で当てはまることが多いのです。だから、図解するとなるほどとよくわかるのです。我々は事業で収益を得てますから、自分がやってることが、会社の事業を通じてどう社会課題に貢献し、同時に企業の利益に貢献しているのかを理解できると、パーパスの浸透度がもっと進んでいくと思います。
加藤:なるほど。御社がパーパスを作っていくときに、過去の70年代80年代からのキリンの社内にあるいろんな組織文化みたいなものを、理念であったりパーパスであったりという形に仕上げていく中で、CSV経営というものへと社長が音頭を取って振り切っていき、それを社員の方々が受け入れることができる社内文化があったということですね。その背景には、独占禁止法の問題とか、アルコールに対する社会的な見直しの機運であるとか、御社にとって、一つ間違えば存続の危機につながるかもしれない出来事を乗り越える中で、自分たちはこうしなくてはいけないという、社員の中でのコンセンサスが出来上がっていくのですね。そういう社内のムードに対して、社長が分かりやすく方向性を示すことで、「そうか」という形で納得感のある方向に社員みんなが進んでいくことができたのだということが理解できました。
磯崎:私が今話したような歴史は、若い人は多分知らないと思います。一方で、今の若い人たちは、社会に対する観点が、われわれの若い頃とは全く違います。例えば新聞やテレビでも出ている通り、医療費がこんなに高騰してることとか、病気にならないような仕事ができないのか、ということを気にします。我々は医薬もやってますから、未病とか予防とか、そういうところでキリンの技術を活かすことができないか、それこそがわが社の社会に対する貢献であるという風に考えるようになっています。
加藤:若い人に対し自分の活動が、社会に対して直接に貢献してるんだ、という風な場を与えてあげることになっているわけですね。
磯崎:その感動が若い人にはモチベーションになります。少なくとも私が入社した頃は、そんな立派な人間ではなかったです。仕事を終えて、今日もビールがうまいぞという、そういう気持ちで仕事をするという感じですね。そちらのほうだけしか経験していなかったように思います。
新井:私たちの若いころと比べて変化しているというのは、おっしゃる通りですね。それこそいろいろな意味で社風が変わってる。もしかしたら御社の中では、もちろんビールが主たる事業でしょうけど、若い人の中にはアルコール会社と思ってない人の方が多いかもしれませんね。最初からビール会社だと思って入った世代と違うのかもしれない。
加藤:社会的に存在を認められていると言っても、アルコールに対し少し厳しい目がどんどん広がっていく状況で、自分たちの中で、発酵などの分野・技術をうまく出していくことで、投資家の「ビール事業、アルコール事業」という見方に対し違うアピールの仕方があるんだということですね。それを、御社ではかなり早い段階から意識づけされて、今日に至っているということがわかりました。会社の中で40代から50代の方々と、20代から30代の方々の捉え方が違ってきているということですね。ただし、社長が掲げてるものに対して、それぞれの立場で若干違いながらも、大きな方向性としての共感は皆さんが持っているのではないかと感じました。
実際にCSV経営という方針を出されてから10年近く経っていますが、それに対する組織としての取組みが進化しているということですよね。御社グループの中では、いろいろな事業領域に取り組んでいる社員の方々がいらっしゃいますが、社長が示しているCSV経営の方向性や、企業理念、考え方に対し、腹落ちしている社員の方々がどの程度いらっしゃると思われますか。
磯崎:正直言って、社員に対してCSV経営についてアンケートを行うと、共感している人の比率は極めて高いのです。CSVを推進してる代表企業であるということが、若い人の就職に対しても非常にいい影響を与えています。
新井:若い人たちのほうが仕事と自己実現を深く結びつけているように思います。
磯崎:一方で、少し困ってしまうのは、新入社員が入社してしばらく社内での経験を経て、異動希望を聞くとCSV関連部門に行きたいという声が多いということです。
また、事業をやりながらでもCSVという観点でいろんな取組みをしてる人たちも結構います。何もワインとかホップだけに限らず営業一つ一つにおいても、CSVにつながるいろんな取組みをやってます。最近はヘルスサイエンスをみんながやりたがるようになっています。この領域は特に免疫において、我々の開発したプラズマ乳酸菌で大変大きな成功をおさめています。これをもっともっと世界に広めたい。そしてプラズマ乳酸菌の持っている免疫の機能を、もっと他のところでも転用できないのか、というような意識で取り組んでいて、会社として非常に大きく変わりつつあるという感じがしています。
新井:有難うございます。今までの経緯のところについてはよくわかりました。今後、パーパスをメンテナンスしながら維持・発展させていくことが必要になりますよね。御社から頂いた資料の中にあるCSV経営を推進するガバナンス体制(図)を見ると、多層的な構造でピラミッドのように仕組みが少し重そうな気がしますが、いかがでしょうか。
パーパス達成度を評価
溝内常務執行役員:この図の中で、上の方に置いているのはプロセスみたいなものです。不変的な理念をグループ・マテリアリティ・マトリックスを使って変化し続ける社会にフィットするようにパーパスへと翻訳していく、という構造になっています。この構造のうち、ガバナンスに関する部分は下の方だけです。マネジメントの評価は、パーパスに紐づいています。中長期のインセンティブとして全報酬の一定割合を充てていますが、その評価項目としてパーパスの達成度が組み込まれているということです。この評価に関しては、あらかじめ目標に関するKPIを作っておいて、全部可視化させた形で達成度を見ます。
例えばペットボトルだったら2027年に50%を再生ペットボトルに切り替えるという目標がありますので、それを年度単位でブレイクダウンして、達成度を見ます。具体的には、2023年時点では27%を再生ペットボトルにする、という目標が達成できるかどうかで、役員などのマネジメント層の評価が決まっていくのです。同じように、事業会社ごとにもKPIが定められています。
新井:パーパスがあって、最終的には役員の人のKPIに落とし込まれるとその部下の方のKPIにも反映するという意味で、しっかりとした管理がされているということですね。
磯崎:誰だって、自分のもらう報酬の中にそれが組み入れてなかったら、本気にならないですよね。そこを見せるのが、先ほど申し上げた覚悟ってやつです。やっぱり覚悟しないといけない、覚悟しましたっていうことを示さなくてはいけない。このように評価に組み入れるようになったのは、前回の中計(2018年~2019年)からです。今の中計が2回目です。そして、中長期報酬の評価に占めるパーパス達成度のウェイトは最初が10%で今回は20%という形で比率を上げています。達成度のKPIの中でも、さっきのペットボトルの何%という目標は数値化できるのでわかりやすいんですけども、定性的なものもあります。定量・定性ともに目標や達成度の評価は最後は、社外役員が決めています。
プラズマ乳酸菌で、2023(令和5)年に恩賜発明賞を59年ぶりに獲得したんです。食品分野で最初に受賞したのは1926(大正15)年の鈴木梅太郎さんです。その時に一緒に取ったのは、味の素のグルタミン酸ソーダです。その後に表彰されているのは、1951(昭和26)年のキッコーマンと1964(昭和39)年のヤマサ醤油と味の素です。このあと59年ぶりにわが社のプラズマ乳酸菌が食品で取って、私が常陸宮様から賞を頂いたんです。このような中長期的な功績を評価するということです。
なお、中長期報酬に連動しているのは役員から事業会社のトップまでです。実際に達成できないこともありますが、それは上の人間が責任を持つことで、下の人間に押し付けるということはしないんです。
加藤:マネジメントの評価の方法を見直したということで社長の覚悟は伝わります。一方で、社員への浸透が気になります。トップが旗を振っているのに社内で浸透していないような事例もありますが、御社の場合、新入社員だけでなく元からいた社員にも浸透しているとのお話でした。パーパスで掲げる意識はかなり皆さん共有していらっしゃる感じなんですね。日本の食品産業の中で、同じ分野である醸造とか発酵を強みにしている企業、あるいは他のビール会社とも質が違うように感じます。
磯崎:もともとキリンの社員っていうのはそういう感度がある人たちが多く入ってきていると思います。私たちは、ビール会社ではありますが、他の酒類企業は本当に純粋なアルコール、あるいはビール会社なのに対して、私たちは医薬とかヘルスサイエンスを持っている極めて世界でもユニークなポートフォリオの会社です。キリングループはほぼ2,000億円の利益がありますが、そのうちビール部門は海外も入れて1,000億円弱、そして医薬事業が1,000億弱になっています。このようなポートフォリオを組んでいる会社はほかにないですよ。
アサヒとキリンが比較されますが、アサヒはビール事業の構成比が高く、またグローバル展開をしています。その部分とわが社のビール部分だけを取り出して比較してほしいですね。外部のアナリストの評価は、全事業を入れた上でキリンをビール会社として見ています。
私たちもアサヒビールのようなポートフォリオで事業を展開する選択肢もあったのですが、それは選ばずに違うポートフォリオを選んできたということです。
新井:2019年以降に入った社員にとってみると、この医療とビールのポートフォリオが出来上がったところに入社したということですね。
資料を見ると、段階的にステップを踏まれているけど、最初にやったものは変わっていないですね。ここがぶれるとみんなステップが踏めないことになりますが、目標の立て方など、いろんなバージョンアップがあるにせよ、御社は最初にやったものを変えずに、段々連動していっています。
社員に対し、今流行りの言葉で心理的安全性とか社会に対するコミットメントというのを仕事をやりながら求めていくという状況が今できています。これに対する、例えばリスクじゃないですけれども、大きな変化を考えなくてはいけないとしたら、どんなものが想定されますか。今後、長期的に想定される荒波と、どう乗り越えるというイメージをお聞かせください。
個々人・事業ごとにパーパスを落とし込む
磯崎:そうですね。全体的に見て先行きが不透明な時代ですから、今、業績のいい中核事業も、ダメになるときがある。だから、別の新規事業も立てておかないといけない。新規事業といっても、今の強みを生かせられる分野でやる必要がある。その考えで取り組んだのがプラズマ乳酸菌事業です。この商品をどのように売っていくかはこれからの課題です。ヘルスサイエンス事業は現時点ではまだ証券市場では評価されていない分野です。投資家は既存分野だけをやってほしいのでしょうが、会社としては新しい事業に取り組む必要があり、ビールだけでなくヘルスサイエンスにも手を出していきたい。医薬がここまで儲けられれば証券市場も評価しますが、次にヘルスサイエンスでも評価してもらえるように取り組みます。
今の私の課題は、ビール以外の領域で早く実績を出して証券市場に認めてもらうことです。新規事業を皆さんがやりたがらないのは証券市場が評価できないからです。昔は証券市場なんて気にしなくてもよかったですが、今はそうはいかない。ただ、我々としては、今やっている事業がダメになったらどうするかということを考えなくてはいけない。経営者の考えと、証券市場の捉え方の違いが私の一番の課題です。平行線になりがちですが、理解してもらえるようにコミュニケーションを続ける。これが大事です。
加藤:ありがとうございます。会社全体の方向性(パーパス)と社員個人・事業ごとに具体的に落とし込む目標設定の方向性の関係について教えてください。
磯崎:方法としては、いくつかあります。グループ内の飲料会社でいえば、今までは単純にお茶だ、水だ、コーヒーだということで考えていましたが、これからはヘルスサイエンスの領域を意識した飲料を開発していくことになります。今度はおいしい免疫ケアの商品ということを考えるようになります。飲料を通じて世の中の人たちの健康に貢献していく方法を考えようと。そのために、プラズマ乳酸菌をどのように活かしていくかと考えていくのです。プラズマ乳酸菌という他社にない差別化できる分野を企業全体でどのように活かすか、みんな楽しみながらやるようになります。そういう形で、社員みんなの意識がそろってくると思います。
小岩井乳業の人たちはヨーグルトでパーパスを実現しようと考えます。メルシャンの場合は、シャトーメルシャンでやろうとするわけです。意識を高く持って、取り組むようになれば、荒れ果てた桑畑が立派なヴィンヤードになります。キリンビールの人は、アルコールだけじゃなくノンアルコールの分野を伸ばすことができる。痛風にならないようにプリン体ゼロのものを販売するとか、内臓脂肪が気になる人に糖質ゼロの一番搾りを販売するとか、それぞれの分野で具体的に商品に落とし込んで目的を持つことができます。一人一人の社員、事業ごとにパーパスを落としこむことができると考えています。もちろん、ヘルスサイエンス事業部の人も考えますが、それ以外の人たちもそれぞれの業務に落ちていくのです。
全部が全部ヘルスサイエンスになるわけではないですけど悩んでる人がいっぱいいるので、その困りごとに応えていくわけです。アルコールで悩んでいる人には、プリン体ゼロのビールだったり、糖質ゼロの商品を提供することができると考えれば、個人の仕事に全部落としこめますよね。
加藤:ヘルスサイエンスという軸をベースに、一人一人の活動の方向性が見えてくるわけですね。
磯崎:例えば東日本大震災の時に、ちょうど全農の大会があり、私は参加していました。その時に本当に福島の農家の人が風評被害で困っていて、JA福島の女性が「社長さん、なんとか助けてください」と訴えてきました。当時、私はキリンビールの社長でしたので、「確約はできないけど努力しましょう」と答え、福島県産の桃や和梨を私たちの商品である「氷結」で使用し、1本当たり1円を寄付することにしました。社内の商品開発の人間は、原料に使って、もし放射能が入っていたらどうするか?と聞いてきました。私は、国よりも仕入れの基準を厳しくしたうえで、もし入っていたら、これだけ宣伝したけど、品質上キリンとしては発売できませんでした、といってお詫びすることにして、協力する姿勢を示すことが大事だとプロジェクトを進めさせました。その代わり、放射能測定のすごい機械を買いました。そして仕入れた原料は全部クリアできたので、生産し出荷したら、東京でも瞬間に売れていきました。
このように、社会課題の解決の方法はいくらでもあると思います。今の例は、3つの社会課題のうちの地域社会の切り口ですね。健康に関しては、アルコールが入ってますから、必ずしも当てはまりませんが、地域社会のコミュニティには貢献できました。
新井:なるほど。地域との関係でいうと、御社の農業に対する取組みも注目されるものだと思います。農地を有効に活用するのは、日本だけの問題ではなく、世界全体の課題です。しっかり管理することでよみがえる農地はたくさんあります。そういう中で御社は小岩井乳業がグループ内にあることもあり、その苦労を実地で続けておられますね。そういう意味でバイオの話もそうですし、やっぱり地面と生態系につながった仕事から広がっていくことが大事だと感じています。
磯崎:その通りですね。私たちが長野県上田市椀子(まりこ)で再開発したヴィンヤードはきれいですよ。信州の自然とともに、きれいなテーブルクロスで食事してもらえるようにすることで観光立国にもつながります。日本は京都とかだけではなく、農業地域でも、インバウンドに大きな役割を示せるのではないかと考えています。耕すだけではなく、観光資源としても見てもらえるだろうと思います。
新井:御社が、そういう面でも先駆けになっていることは素晴らしいと思います。最後にお伺いします。企業としての取組みが徹底しても、最終的に社長のパーパスと社員のパーパスが合ってないということとなってしまえば意味がありません。逆に押し付けられると歪みにもなりかねない。社員への浸透が、究極の問題だと思います。御社としては、どのようにお考えですか。
磯崎:とても難しい問題だと思います。委員会制を取り入れてもうまくいくとは限らない。社内で制度的なものを作ればよいということではないと思います。形を作るのはいいのだけど、そうではないと思います。魂が入っていないといけません。
新井:そうなんですよね。そこがまた日本人の陥りやすい落とし穴のようなものだと思います。
磯崎:形だけやるのではうまくいきませんが、自分としては、社員に対してうまく伝わるように繰り返し社長の言葉として出していくしかないと考えています。
新井:ありがとうございました。
◆略歴
いそざき・よしのり 1977年、キリンビール株式会社入社。2004年、サンミゲル社取締役。2012年、キリンビール株式会社代表取締役社長。2013年、キリン株式会社代表取締役社長。2015年、キリンホールディングス株式会社代表取締役社長。2024年から現職。