シェフと60分 ホテルパシフィック東京「ブフドール」佐藤料理長
二〇歳でホテルパシフィックに入社以来、一度の異動もなくずっとフレンチレストランにいる。一つ所で二〇年、仕えたシェフは三人。
「シェフによって料理が違うから、これまで来ていたお客さんがこなくなったり、逆に新しいお客さんがついたりしてきたのを見ていたので、おもしろかったんですけど、自分がこの位置についてからは、これが今プレッシャーになってます」
道具の発達は、フランス料理を近年格段に進歩させた。
「食材も道具も変わりましたね。フライパン一つとったって、昔は鉄のしかなかったけど、今はテフロン加工もあるのが当たり前でしょ。それによって油の量が控えられるから、女性のヘルシー志向にも応えられます。ほかにも真空パックの機械なんて直接調理に関係なくても品質管理・保存に優れていて、必要なものですよね。これは上の人にお願いして入れてもらいました」
「ホテルのレストランは料理だけやっていればいいというものではなくて、人件費などのコスト的なものも求められます。そう考えても機械の導入は不可欠ですよ。だってお菓子のミキサーなんていうのは、電気さえいれておけば三人分働きますからね。しかも人がやるよりきめの細かいメレンゲができます。そうすると食べた時の食感ってまるで違うんです。私は機械でやった方がいいものは、機械でやります。ただ便利になりすぎて、あとちょっとすると機械がないとなにもできないコックがでてきてしまうかもしれませんね」
「私の財産は、鍋さえあれば何でもできることなんですよね。今の人は失敗したものを手直ししていくテクニックがないように思います。だから、私もあんまり簡単に料理を教えてしまうと若い人が苦労するんじゃないかと思ったりするんです。どういう世の中になるかわかんないけどね」
「グランドメニューは時々変えていますけど、変わらず残ったメニューを食べて『この前来たのは一〇年前だけど、今日同じものを食べたらやっぱりおいしかった』なんて言われるとなかなかうれしいものです。あのときの方がおいしかったといわれないよう、一〇年前と同じものをつくることは目標でもあります。変わらなきゃいけないこともありますけどね」
食材の流通も今と比べると格段の差。若い時一番苦労したことは、食材を覚えることだった。
「キャビアやフォアグラなんてめったに見ることがなかった時代ですから、覚えるのは大変でしたね。今は流通が発達したから、羊や魚、海外でとれたものがチルドの状態で入荷されてくるから、物を見極めるチャンスがたくさんありますよね。私が始めたころは日本でとれたものを相当使っていました。それ以外でもトリュフは缶詰だったし、フォアグラはびんに入っていました。本物を見る機会は今のように日常茶飯事的なものではなくフランスフェアとかの機会に限られていました」
「今は本物がしょっちゅう見られてあまり感動とかしてないかもしれませんね。昔の新人より今の新人の方が、しっかりやれば昔より早く仕事を覚えられると思いますよ。僕なんかここに入ったときは、先代のシェフに『一人前っていえるまでに、一つの場所で一〇年かかる』っていわれました。今その一〇年を短くしようと思えばいくらでもできるでしょうね。情報も多いし」
「でも今の人は大変でもあるんです。昔われわれがやっていた仕事を、今は業者がやってきてしまうことが多くなったからです。その業者がやってくる部分は、空白になってしまうわけだから、自分でどんどん興味をもって、やる気をもっていかないといけないね。うちでは仕入れでできるだけ手が入ってないものを入れるようにしています。やはり若い人の知識でも、仕事でも、基本をしっかりつくっていってあげないとこの先自分が上に立ったとき大きな壁ができちゃいますからね」
新人教育では、自信がなかった自分の新人時代を背景に考える。
「自分の思っていることをしっかりいえる人になるように、そして、自分のいったことにちゃんと責任をもつように教えています。そうやって積み重ねて仕事へのプライドをつくっていって欲しいです」
◆プロフィル
昭和33年生まれの三九歳。高校生の時、喫茶店で食べたピラフやパスタがとてもおいしく、新鮮に感じたのが、洋食の道へ進むきっかけとなる。高校を出て調理専門学校へ入学。卒業して、フランス料理を希望し、ホテルパシフィックへ入社。当時名前だけしか知らないフォアグラやキャビアを、仕入れの搬入口に取りに行くのが一番の苦労だったとか。三四歳で千葉のホテルパシフィックのシェフに。自分の料理が確立されたと同時に、仕事に自信がもてたという。
会社が終わると、若い人たちと飲みに行ったり、カラオケに行ったりもする。会社を出れば上下関係はなし。自分が新人のころから「先輩になったときはそうしよう」と決めていたそうだ。
文 石原尚美
カメラ 岡安秀一