超繁盛店ルポ・アメリカ版:マクドナルド1号店

2000.05.01 203号 10面

前回はケンタッキーフライドチキン(KFC)を紹介した。引き続きマクドナルドの創業一号店を紹介する。マクドナルドもKFC同様に一号店を博物館として当時のままの状態で保存しており、創業当時の営業のやり方を学ぶことができる。どんな大チェーンでも最初は個人の食堂として営業を開始したのであり、そのやり方は大繁盛の大きなヒントである。

創業者のレイ・クロックが一九五五年に一号店を開店したときの売上げは、たった三六六ドルだったそうだ。でもこの一号店を見学してみると、四五年前のレイアウトと現在のマクドナルドのレイアウトがさほど変わっていないのに驚かされる。それだけ一号店の設計が優れていたのだといえるだろう。

でも実は、レイ・クロックはマクドナルドの本当の生みの親ではない。しかもマクドナルドは、ハンバーガーチェーンとしては最初の企業ではない。米国のハンバーガーレストランチェーンの第一号といわれているのは、ホワイトキャッスル社だ。

一九二一年にカンサス州のウイチタで一号店を開店している。ホワイトキャッスル社は、焼いたひき肉をバンズに挟んで提供するという今のハンバーガーチェーンの商品を、既にそのときに開発していたのだ。

そんな米国に多いハンバーガーショップをつくろうと、カリフォルニアのある町で、ディックとマックというマクドナルド兄弟が一九五〇年にまったく新しいファストフードレストランを考案した。今までのドライブインレストランと異なり、ウエートレスや陶器の皿を使わない、セルフサービス方式のドライブインレストランである。これが現在のマクドナルドの原型である。

そこでは、一種類のハンバーガーとフレンチフライ、シェーク、コーラという限定メニューであった。マクドナルド兄弟は、当時の巨大産業であった自動車産業、特にフォードのコンベヤーシステムの生産性の高さを参考にしようと、当時の自動車工業界で使われていたインダストリアルエンジニアリングという作業改善の手法を用いてハンバーガー店の設計を開始した。

店をつくる前にテニスコートに原寸大のレイアウトを描き作業性を検討したのだ。この高い生産性を可能にしたレイアウトが、現在のマクドナルドの繁盛ぶりを築き上げたといって良いだろう。

マクドナルドの初期のころのメニューはハンバーガーが一種類であり、全メニューで一〇品目くらいであった。

そのため、ハンバーガーを事前に調理してウォーマーに保管しておき、オーダーがあったらすぐに提供できるようにしていた。これをストック・ツー・オーダーシステムと呼ぶ。

このシステムによりテークアウトのビジネスを成功させることができ、かつドライブスルーのような新しいビジネスチャンスを物にすることができたのである。

シェークを作るマルチミキサーのセールスマンをしていたレイ・クロックが、マクドナルド兄弟の店と出合い一目ぼれ、兄弟からマクドナルドの権利を買い取り、シカゴのディスプレインというオヘア空港からすぐ近くの町に一号店を開いたのである。これが現在、レイ・クロック創業の一号店として博物館となっているのだ。

実はこの創業の時、レイ・クロックは既に五二歳であったという。そして会社創業後死ぬまで、マクドナルドのスポークスマンとして世界にハンバーガーを普及して歩いていたのだ。

KFCの一号店では普通のレストランも、調理方法と味付けの工夫によりだれにもまねのできない店舗をつくり上げる可能性が学べる。

マクドナルドの一号店を見ると、合理的なレイアウトによってアルバイトでの店舗運営が可能になり、それが二万店を超えるチェーンを築き上げたという合理的な厨房のあり方を学べるのではないだろうか。

カーネル・サンダースもレイ・クロックも、それまでいくつかのビジネスでの失敗にめげながらも、あきらめずにチェーン展開を開始した時の年齢は五〇歳を過ぎていたという。

数々の失敗にもめげず、年齢のハンディを物ともせず、「ネバーギブアップ」の精神で世界最大のフライドチキンチェーンとハンバーガーチェーンを築き上げたということは、この不況で苦しんでいるレストラン経営者の方々を大いに元気づけるのではないだろうか。

元気がほしい人はぜひ、これらの一号店を見てみようではないか。

(㈲清晃・王利彰)

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