シェフと60分 灘萬山茶花荘調理長・田中博敏氏 160年、日本の味伝承
「あたりまえですが、料理は旨くなくてはいけません」あくまでも厳しい目で素材を見極め、味わいと風味の双方に季節のほのかな彩りを添えていく……。日本人の感性が息づく「灘萬」の料理を調理長として守り継承している。
田中さんが調理をあずかる「山茶花荘」は東京・ホテルニューオータニの日本庭園の一角、都会の喧噪とかけ離れた静寂の中に「灘萬本店」としてある。
「灘萬」は古くは西園寺公望公、明治の文人夏目漱石、森鴎外、近年ではレーガン大統領、サッチャー首相を迎えた東京サミット公式晩餐会、ゴルバチョフ大統領、ブッシュ大統領ご夫妻のもてなしなど、時代を動かした人々と共に歩んできた。
創業は天保元年、一六〇年余の伝統を誇るが「先代のおかみの口癖は“老舗はいつも新しい”でした」と語るように、「灘萬」の掲げる老舗は「伝統を受け継ぐという一方で、常に新しさを取り入れる」というように懐が広い。「守り続けている伝統料理は明治維新直後にメニューとして加わった“すっぽん料理”“豚の角煮”など漢方の滋養物を活かした料理から「パンのスープ煮」「風呂吹きかぶら」、夏目漱石の作品にも出てきた“まな鰹の味そ漬”など」。
最近は「キャビア、トリュフ、フォアグラ、ふかヒレなど、洋・中の食材を和にアレンジして取り入れるなどして食材の幅が広くなった」という。反面、「昔ながらの骨ごとしゃぶる“鯛のあら炊き”のようにおいしいものが接待という制約から出せなくなったのは残念」と味覚の真髄を極めている料理でも時代には逆らえない。
「山茶花荘」は接待中心の高級日本料理店という特性から「予約が入った時点から献立作成までにお客様の情報をどれだけ集められるかが、会食成功の鍵をにぎる」。それほど、“お客様の情報”が重要なのは「お客様の状態に合わせた料理作りが最高のもてなし」だからである。情報は人数、性別、年齢などの基本から会食の目的、それぞれの嗜好まで多岐にわたる。しかし、「外人客なのでお造りはダメとうかがっていたら大好物だったり、その逆もある」とむずかしい。
一組一組、正確には一人ひとり献立が違う。「常連の方が多いので、懐石料理づけの方にはコースの中に“家庭の味を”と大根おろしのように“ざんぐり”したものを一、二品入れると逆にホッとされる場合もある」。また「部屋の雰囲気を調理場でいかにつかむかも大切なので、どんどんわがままを言っていただきたい」とあくまでも一人ひとりの心をよんだもてなしを旨としている。
「日本料理のよさは季節感と素材を殺さないこと。しかし、私も調理長になりたての若い頃は料理に手を加えたくてしかたがなかった」という。“素材を生かす”と簡単に言うが、頭で覚えるものではなく、長年の経験で体に備わる“料理の粋”なのである。「お客様も、若い方は手間暇かけた凝った料理を好まれますが、食べ込んだ方は素材そのものを楽しまれる」。
田中さんは昭和49年に「灘萬」に入社した。現在の「灘萬」顧問熊野保氏について三〇人余が入社したのだという。「当時は師匠が動けば皆ついて行ったものです。おやじ(熊野氏)は料理の盛り付けが終わる頃に盛り直しを言ったり、やっととれた休日のために仕事の段取りを終えていても当日出てこいと言われたりと、とにかくしごかれた」「それでも皆、いつかは調理長になれば……という思いで師匠に師事した。プロの料理人にはステータスがあったんです」。
今の若い人には「根性が無い」という。三勤一休と休みが多くなり、「一〇年で一人前になれたのが今では一五年かかる」ようになり、仕事覚えの効率が悪くなった。時代の流れでかつての徒弟制度の職場がいまは新米から休みと給料が保証された良い時代となったが、必ずしも良い料理人を育てる土壌とはなっていないようである。
また「料亭だけではよい調理人は育ちにくい」。大型店、小型店といろいろなところに対応できる人を育てなくてはいけない。「灘萬」は国内外に様々な業態を一五店舗運営しているので、各店の経験を積ませて修業させている。
「私は無器用だから現在があるんです」と笑う。「若い人で筋がいいなと思っても器用さゆえにダメになることが多い」。腕におぼれることなく、コツコツと経験を積み重ねてゆくことが一人前になる最低条件のようである。
田中さんは何年たっても「今日の料理はうまかったと言われた時が一番うれしい」と、どこまでも純粋だ。
文 ・福島厚子
カメラ・岡安秀一
・住所/東京都千代田区紀尾井町4‐1ホテルニューオータニ日本庭園内
・電話/03・3264・7921
昭和24年、長崎県に生まれる。腕に職を付けようと一五歳でこの仕事に入る。九州で三年、関西で七年腕を研く。49年に師匠である現「灘萬」顧問の熊野保氏について一緒に「灘萬」に入社する。東京・帝国ホテル店に六年務め、調理長としての仙台店四年八ヵ月を経て60年に「山茶花荘」オープンと同時に調理長として腕を振るい、九年になる。