食品企業におけるパーパス経営の先進事例:にんべん・髙津伊兵衛社長に聞く
◇株式会社にんべん 代表取締役社長 髙津伊兵衛氏に聞く
インタビュアー:新井ゆたか/加藤孝治
同席者:町田忠男(株式会社にんべん経営企画部長)
インタビュー日:令和6年1月24日
インタビュー場所:株式会社にんべん本社(東京都中央区)
※社名・役職はインタビュー当時のものです。
* * *
加藤:御社が日本橋で長く事業を続けてくる間に培ってきた「不易流行」に関する社長のお考えをお聞かせ頂きたいと思います。また、社長のお考えを、社員にどう伝え、経営に巻き込んでいくかということも教えてください。長年の歴史の中で、取引先との関係性も教えてください。
新井:長い歴史の荒波の中で、創業の思いや伝統を守るために、どのような苦心をされたのかという点に興味があります。御社が取り扱う鰹節は、世の流れの影響が大きいと思いますが、特に、フレッシュパックを開発したのは、非常にエポックメイキングな出来事だと思います。創業の思いと消費者への貢献を考えると、ファミリービジネスとして、取り組まれた利点があるのではないでしょうか。現在、日本社会が直面する人口減少は、食べる人の口が減るということで食品企業への影響は大きいです。御社のような歴史の長い企業が、創業の精神を守りながら、どう事業変革に取り組むのかお話をお伺いしたいです。まさに、歴史の中で変わらない価値観と、変えるべきことの絞り込みこそ、ファミリービジネスの強みがあると思います。
町人向けの商売で事業を拡大
髙津社長(以下、敬称略):わが社は江戸時代に創業者が三重の四日市から出て江戸で年季奉公を始めたのが出発点です。私は13代当主であり、2009年に7代社長となりました。創業者が20歳の時に独立した1699年を創業の年としています。髙津家は三重でも雑穀とか乾物を扱っていましたが、創業者は次男だったこともあり独立して江戸で鰹節を扱う問屋になり、その後、現在まで鰹節を主に扱っています。
創業者が成功したきっかけは、新しいお客様を見つけることができたということにあります。最初は、武士階層を顧客として加賀藩の出入り業者となり、それ以降、武家屋敷の仕事が増えました。そのあと、町人に対する商売を増やすこととなります。引き続き武士階層もお客様でしたが、町人向けに小売をしたということが顧客拡大につながります。武士のような大口の上得意顧客から町人向けに小売をすることになり、少量での多くのお客様に対して商売をできたということが、大きなきっかけで成功につながったと考えています。
武士を相手とした大口取引は江戸の初期から中期にかけては調子がよかったのですが、江戸の後期になると藩の財政が厳しくなり、あまり良いお客様でなくなります。掛け売りで販売するので、代金が回収できなくなることもありました。そういう時に町人相手に小売をしていたことが、その危機を切り抜けるきっかけになったと考えています。当時、武士向けを中心に掛け売りが多く、その場でお金をもらわないというのが当たり前の商売でした。そして、お盆と年末に代金を回収することになるのですが、そのリスクが高く、回収できないこともありました。そのリスクに対し、町人向けに小売商売を現金掛け値なしで行い、その場で品物を渡して代金を頂戴していたので、回収リスクがなくなります。あらかじめ、値段を定めて適正な廉価で品物を渡すことができたことで、町人のお客様から支持される結果につながったと思います。
加藤:現金商売というと、三越さん(越後屋呉服店)が有名ですね。御社としては、近所(日本橋)で三越さんが始めた評判が良い商売の方法を取り入れたということですね。今から考えれば、御社も三越さんも現金商売をすることで、いろいろなリスクをカバーできたんですね。武士がどんどん衰退していく中で、町人向けに現金回収リスクを取らない商売をうまくやれたということですね。
当時の多くのお店は大口取引を優先して掛け売りをしていたということでしょうが、町人向けに現金商売をやるというのは、当時の選択としてどういうことだったんでしょうか。取引先を武士に絞り込んだほうが効率的な商売ができた、あるいは、格が高いとか、そういうことだったのでしょうか。それとも、武士にこだわらず町人にまで広げていくというほうが良かったんでしょうかね。
髙津:そうですね。当時の商売の方法なのでわかりませんが、鰹節では当社が初めてです。多分、江戸時代にも三越さんや私ども以外にも、同じように現金掛け値なしの商売をした店はあると思います。町人向けの商売となると、例えば、三越さんでも反物をお好みのサイズに分けて、小さい単位で売るという工夫が必要になります。販売単位が小さくなることで、お客様が少ないお金でも買えることになりますが、同時にいろいろなお客様が増えてくることになります。
加藤:御社も三越さんも高級な商品を町人が買えるような価格帯にしているということですね。まとめ売りだけじゃなくて小口売りをして、顧客の獲得につながったのですね。
新井:日本橋という顧客が集積する場所に町人文化ができて、それが新たなビジネスにつながったということですね。町人向け商品における工夫が興味深いです。
髙津:そうですね。江戸時代の日本橋は、いろいろなものの集積地です。まずは魚河岸が中心にあって、橋の西側の常盤橋御門は江戸城の入口にあたります。そこから西側は武家の社会で武家屋敷とも非常に近い場所にありました。魚河岸を通じていろいろなものが流通していましたし、いろいろな文化や商業の中心にもなりました。
当初、歌舞伎の芝居小屋も日本橋にありました。風俗についていえば、最初の吉原も日本橋にあったので、本当に経済や文化、あらゆるものが集まった場所だったからこそ、商売のネタがすぐ近くにたくさんあったということだと思います。
加藤:御社の変わらない価値観は、お客様が望んでいるものを提供するということでしょうか。
髙津:鰹節のなかで、武家向けと町人向け双方の商売をしているということです。
加藤:他店は武家向け商売に留まっているところを、いち早く切り替えられ、それを売って欲しいと考える町人の気持ちに寄り添うということが、お客様本位かなと感じました。
髙津:もう少し現実的な話です。当時、武士の羽振りが悪くなり、高級鰹節があまり売れなくなってきた時に、小さな節でかじけ節という商品はよく売れているという記録があり、それを大坂から仕入れて積極的に販売したということです。
加藤:なるほど。それで町人向けの商売を拡大させたんですね。
少し話題が変わりますが、御社の江戸時代の歴史を読むと、養子が家を継いでいるという特徴と、にんべんの商品手形を発行されたお話が特徴的です。
髙津:それも結果的にそうなったということだと思います。後継ぎに男性がいなかったので、婿を取って継いでいただいたということで、積極的に婿を取ったということではないです。4代目、6代目、8代目、9代目が養子です。その代に男性がいなかったという場合と、次を継ぐものが幼く、途中、夫婦で親類の方に継いでもらった場合があります。
加藤:なるほど。当主が幼少の時に、ビジネスは優秀な人に担ってもらうということですね。家の後継ぎと事業の継承を分けて考えるということですか。
髙津:いえ、家も事業も一緒です。住んでいる場所で商売もしていますし、そこにお店で働いている人もいます。その店を運営している髙津家も一緒に住んでいたわけなので。
加藤:家と店が一緒ということですと、家は嫡系継承で当主が継ぎながら、当主が小さい時には、4代目、6代目のように、親類の方が養子に入るということですね。
当主も質素倹約
新井:逆に言うと、名前を継ぐということは、御社の仕事にとってどのような重要性があるのでしょうか。ある意味、優秀な番頭がいて、今まで続いているということもあるように思います。一方で、御社にとって髙津家が継いでいくことが、安定とか繁栄ということに重要な意味があるということですよね。江戸時代にも養子の方が継がれて事業を経営してきたという経験が今に生きているんですね。
髙津:これも結果的にとしか言いようがありません。昔はどこの家もそのように続けてきたと思います。私どもの場合も、11代目と12代目が事業を継ぐ間に、親類の者が社長をやっている期間があります。株式会社になって法人化された時には、親類の者が経営している時期もあるので、代々襲名している伊兵衛が社長ではない時期もありました。今後も代表取締役という会社経営者が髙津家の人間でないことはあり得るでしょうね。先代の前は親類の者が経営していましたし、その時は他にも何人か親類の者が会社にいました。株も分家の方に分散していました。今は取締役持株会で買い取り、社員持株会に集約しました。一部、関連会社で持ち合いにしている株式もあります。今は、株主数を減らして髙津家では私だけが株主として残っています。
江戸時代には、伊勢屋であり、にんべんが繁栄してしっかり商売ができていくということが、親類の皆さんにもメリットがあるということで続けていくことができたと思います。
加藤:会社として当主のところに戻っていくことによって、同族や社員の間で求心力ができていて、家族で事業をしっかり立てていくいうイメージが強いですね。
髙津:当家としては、養子の方に来ていただいて、そこに子どもが生まれて続いている。それも直系ということですから、経営がどこかに行くという感じはなかったです。
加藤:分家に当主を渡すということではなく、その人を養子に入れて直系を守るということですね。
町田部長(以下、敬称略):初代から三代目までの間に、お店のルールがまとめられています。その中には、質素倹約を旨とするみたいなことが常に書かれています。当時は、お店が繁盛したあと当主が華美になってつぶれていくところが多かったので、そうならないように、「お店の運営ルール」「当主としてのあり方」などを、ある意味哲学的に書き残されています。それが代々受け継がれていく中で、当主でも派手な暮らしをするわけではないというのがお店の文化として染みついていたことが、親類の中で当主を争うことにならなかった理由の一つかもしれません。極端に言えば、お店を切り回している当主がそれを守っているので、次世代が「当主になったら良いことがある」と思わないようになっていたように思います。
新井:今風の言い方でいえば、当主になると給料が10倍になるというようなイメージではなく、みんなで一緒に働くんだという感じですね。働いている人も当主を立てながら、みんなが割と平等な感じだったということなのでしょうね。
町田:そういうお店の文化の基準が文章で残されているのは大事だと思います。何もないとやはりブレてしまいますよね。おそらく今でも、火災などにも遭わず残っているのは、代々大切に受け継いできたということだと思います。
新井:なるほど、よくわかりました。鰹節は時代によってだいぶ捉えられ方は変わってきていますよね。江戸時代のころに使っていた方は、鰹節を使って出汁を取っていましたが、今は顆粒の出汁を入れることも多くて、日本は出汁の文化と言いながら、鰹節そのものに対する需要は減っていると思います。生産地の方でもだいぶ減っていますよね。
そういう状況の中で、普通は事業環境が荒波になった時に、別の商品分野に拡大させたり、ある意味、かなり離れたところに経営を拡大することもあります。御社として、他に飛び地のような事業分野を作らないのは、家訓の中から出てきたことなんですか。
髙津:さきほどから、「結果的」にという言い方をしていますが、そこが残ったということだと思います。戦時中は、いろいろな記録を見ると、髙津航空工業を設立しています。ほかには、メナド造船と言って、インドネシアのメナドに関わる事業を行っています。これは、太平洋戦争の前に現地生産に関わったということかもしれません。実際のところ、そういう会社はいくつか作っています。その事業内容・経営状況がどのようだったかは定かではありません。
ほかにも、喫茶室のようなものもあり、「にんべん喫茶部」という組織があったようです。輸入代理店のような事業もありました。お酒を扱ったりして、販売代理店ですね。以前は不動産も多く持っていたので、その管理会社もありました。
贈答品としての商品券の利用
加藤:ありがとうございます。次に江戸時代に始まる商品券の話も教えていただけますか。
髙津:それは6代目が天保年間(1830年代)に始めました。この商品券がお客様に非常に支持されました。最初は銀の板でしたが、その後に紙の商品券になりました。これは貨幣としては流通せず、鰹節以外は買えませんが、発行を認められていました。
新井:今でも商品券を発行する時には、商品券が無価値にならないように見合いの資金を預託しなくては発行できません。御社の商品券の裏面に「定」の記載があるということは、当時、御社にそれだけの信用力があったということを示していますね。
町田:商品券は普及したのですが、その後、明治37年(1904年)に商品券を持っている人が鰹節に交換してくれと店頭に押し掛ける取り付け騒ぎがありました。その時には、店頭に鰹節を山のように積んで交換するだけの商品があるとアピールして終息させたとのことです。ちなみに、1904年は三越がデパートメントストア宣言(1905年)をした頃ですから、日本橋が非常に栄えて商業の中心地でした。
新井:それだけ当時の鰹節卸しというのが、大きな商売だったということですね。
加藤:鰹節が日常的に必要なものであり、価値をみんなが認めているということですね。鰹節の価値がある程度一定な状態だということですね。
町田:6代目が商品券を発行したのは、町人も豊かになってきている時代です。
加藤:武家だけじゃなくて、町人も豊かになっていたので、その人たちに商品券を発行することができたのですね。
髙津:この商品券もたくさんのお客様に発行できているということです。
町田:もともと武家社会では鰹節自体が、いわゆるお輿入れの時の引き出物という形で縁起物として使われていました。これは古来で言えば、神事で使われていたみたいなところもあり、非常に縁起の良いものとして使われていました。お祝い事に使われていたのが、町人が豊かになることで、同じように使われるようになっていきます。武家の文化を町人が真似するようになり、町人も武家と同じように鰹節を使う文化が広がり、祝い事に鰹節を贈り合うようになったのです。
加藤:現金でまず商品券を買って、にんべんに持っていけば鰹節に交換できるということですね。また、それが贈答品として使えるということですね。
町田:江戸の町人が持つ粋の文化では、大きな荷物を抱えていくのは粋じゃないということで、小さな商品券を持っていくのが良いとの考えから、商品券が利用されるようになったと思います。
新井:全国的には昆布出汁がありますから、鰹出汁は地域的に一部の出汁文化だったのですね。江戸で鰹出汁に触れて、町人や地方から来た武士によって地方に還元されていったという感じでしょうか。
髙津:江戸は、当時まだ昆布はそんなに普及していませんでした。
加藤:昆布は北海道のほうでとれるので、北前船で京都・大坂に運ばれます。江戸には北前船が来ていなくて昆布文化が入っていないから、太平洋側から鰹節が入ってきたということですね。黒潮に乗って鰹が取れるので、産地が全部太平洋側ですね。
新井:黒潮に乗ってMizkanが半田から酢を持ってきて、それを使って大きな寿司屋台を作ったのが、寿司文化の最初だと聞いてます。
髙津:江戸後半に濃口醤油と鰹出汁が合わさって、今も続く色の濃い蕎麦つゆなどの関東の味になっていきます。やはり食文化がそこで発展しているのですね。
町田:野田あたりの醤油というのは、北関東の群馬や栃木などの利根川の上流側でとれた大豆などの原料が、利根川の水路で運ばれ、千葉の沿岸でとれた塩と一緒になり、醤油産業が盛んになったのですよね。
髙津:当時は江戸で食文化が発展して、なれ寿しから握り寿司が出てきたり、そばのつゆが使われたりしたことで醤油の需要が増えたということです。
加藤:町人文化の発展に合わせて、日本橋でいろいろなものが生まれていますね。その新しい動きを先駆的に作る人と、それを取り入れて追いかけていく人が生まれることがわかります。また、町人などの新しい利用者が買えるように小分けにしたり質を見直したりすることで価格帯を広げたり、買いやすいように商品券を作ったりと、御社が新たに取り組まれたことが江戸の町人文化とうまくシンクロしたということだと思います。
髙津:当時は、江戸の日本橋という場所で、人口が増えていくだけでなく、対象市場が武家から町人へと広がったことで、新たな食文化を取り込んだ新商品が生まれる機会が増えたということでしょう。
加藤:御社がやっていた鰹節の町人向けの販売と醤油が持ち込まれたことが重なって、江戸の食文化を作っていったということが面白いですね。
町田:そのように考えると、当時の江戸というか、まさに日本橋あたりが、いわゆるマーケティングでいったら最先端が集まっている場所であり、感度の高い場所だということでしょう。そこで商いをしていたからこそいろいろなことに気がつくことができたと思います。地理的には本当にコンパクトなエリアに、ものすごい情報量が集積していたと言えると思います。
加藤:そうした動きをまとめていうと、「不易流行」ということなのでしょうね。新しい動きを、どんどん取り入れて発信していくことをなされていたということですね。
町田:変化も早かったと思います。同じ商売をずっと続けていたら続かないというところもあったでしょう。
商品券でキャッシュフローが好転
加藤:それまでの仕事のやり方にこだわっている人はどんどん没落したという感じなのでしょうね。御社は、売り先・売り方をいろいろ変えています。商品提供の仕方、マーケティングを変えている。鰹節という製品は変えずに、マーケティング商法を変えているということですね。
髙津:商品券もそうです。最初は銀の商品券でしたが、その後、大量に紙の商品券に変えています。商品券の発行に手間がかかります。また、実際のところ、銀だと同じ価値との交換なのであまり儲けがありません。
当社が発行する商品券に対する信用を得てからは、紙の商品券を大量に発行しています。そうすることで、コストが下がるとともに、お金を前受できるので、非常にキャッシュフローが良くなっていくのです。
町田:当時の他のビジネスと比べると、掛け売りでやっているところが資金負担を強いているのに対し、当社は逆転しているわけです。
新井:紙の商品券はいつぐらいまで発行していたんですか?
髙津:昭和までありました。当社の商品に限定された商品券です。多分、戦後には無くなったかなと思います。
町田:商品券を出してから早い時期に紙に変わりますが、その辺の才覚がすごいと思います。結局それがあったことで、いわゆる維新を乗り越えることができたとも言えると思います。
新井:武家向けの売掛が無一文になった時に、商品券は先にお金をもらっていて、御社がちゃんと品物を渡すことで無形の紙切れにしなかったということですね。
加藤:町人向けビジネスのキャッシュがあることで、売掛金が取り立てできなくてもなんとか生き延びることができたということですね。とても面白いです。
髙津:今の鰹節業界の大手企業は、ヤマキさんやマルトモさんですが、彼らは産地側の企業です。
町田:実は、両社は太平洋側の産地でもないです。本社は瀬戸内ですから。
髙津:ヤマキさんは鰹節屋さんというよりは、最初は削り節から始まっています。最初は煮干しを削ったものなので瀬戸内が本社なのです。
町田:昔は、節を削った状態で販売されていた商品を「花かつお」と呼んでいました。商品としては鰹が原材料に入っている必要はなく、節を削っていれば「花かつお」だったのです。そのような時代があったので、それを「鰹節屋」という呼び方をしていました。
加藤:御社の鰹節は江戸末期に新しい鰹節として「本枯鰹節」が確立され、それが主力商品ですよね。江戸末期から明治頃にかけて商品として定着し、関東地域や江戸の街に普及していますが、新商品の開発、市場普及に御社がどのように関わっていったか教えてください。産地の開拓として、市場(江戸)に近い産地で作らせていく過程も、新商品の普及期に効果があったと思います。本枯鰹節というのは御社にとっては、今はこだわりの商材ですね。
髙津:そうですね。ずっとその間こだわってるというわけでもありません。最近になって、また本枯鰹節にこだわるようになっています。
加藤:これは、同業他社(ヤマキ、マルトモなど)と比較して、高級セグメントをターゲットにした戦略ということでしょうか。
髙津:それも一つありますが、本枯鰹節を会社として大切に扱ってきたという歴史があります。やはり、私たちの思いとして、そもそも鰹節というのは、昔から本節と言われる本枯鰹節であるべきという意識があります。削り節に使うような荒節というものもありますが、本節とは言いません。荒本節という言葉はありますが、やはり本節とは違います。本節はカビ付けして熟成した本枯鰹節のことを言います。昔はギフト需要も多く、我々の製品はカビ付けをした本節を扱っていて、それが鰹節だという意識を持ち続けています。
加藤:確かに、ギフト需要と言えば、以前はお中元やお歳暮、あるいは結婚式の引き出物でも、鰹節が選ばれていましたね。
町田:昭和40年代くらいのカタログを見ると、鰹節が中心的な商品として載っています。
髙津:本節が箱に詰められているのが一つのパターンでした。三方と一緒にギフトになっているものもありました。
町田:もっと以前のカタログを見ると、鰹節というのは、本格的なギフトなんです。高級品ギフトとして、引出物セットの中には、盆栽がセットになっているものもあります。縁起の良い鰹節7本を三角形に積み上げ、盆栽とセットにするような引出物です。
髙津:歌舞伎役者の襲名の際のお祝いで杉なりを作ってお持ちするというイメージです。
加藤:先ほど販売対象を武家から町人に広げていく中で、それまで江戸で扱ってなかったような節をいろいろな形で持ってきて、低価格帯の商品を拡大させたということですが、それが、今は本枯鰹節にこだわって、高価格帯を確保しようということですね。
町田:江戸時代末期の頃には、市場である江戸に近い産地である西伊豆で江戸向けの鰹節を作るようになりました。江戸時代には、商品の産地・銘柄ごとに番付をつけるのが流行っていたのですが、鰹節に関しては産地ごとに番付がつけられ、高い番付がついているものは上物とされて高い価格がつく。鰹節が贈答品として重宝される文化でしたから、高い番付がつく上物に伊豆の節が台頭するようになり、その商品を当社が扱っていたということから、大きな商いになっていきました。
そのような評判が確立された頃に、明治維新になり、今度は市民中心の社会に変わっていきます。文化的には百貨店ができて、お金を持って豊かになった市民の方々が高級な鰹節を日常の祭礼で使われるようになってきたということですね。明治になって、洋風文化になっても鰹節は廃れることなく文化は残っているのです。
面白いお話として、三越さんが贈答部を作った時、最初につけられた名前が「鰹節部」だったんです。まさに、贈答品の筆頭が鰹節だったということなんですね。この情報は、三井さんの資料にも残っています。
髙津:現金掛け値なしも商品券も、金融的な売り方の仕組みを作って結果的に成功しているというのが、当社の過去事例を見ると成功要因になっています。
目利きとしての流通が産地を育てる
加藤:先ほど、御社は商品にこだわっているとお聞きしましたが、御社は問屋ビジネスで、実際に製品を作っているわけではないですよね。ただし、御社のビジネス面での工夫は、本枯鰹節での商品選択、売り方の工夫、顧客対応(現金商売、商品券)などがあります。取扱商品は鰹節に絞り込みながら、売り方での金融的な才覚が気になります。
髙津:確かに、新商品の取り扱いや、新しい売り方の工夫などいろいろな工夫が当社が長く続いた要因だと思っています。
町田:製品として本枯鰹節を扱うということで価値創造ができていると思います。我々のこだわりは、産地に接近し、いいものを作ってもらうという点にあります。他社に先んじて、産地とのコミュニケーションを通じて、市場で求められるものを開発しているというわけなのです。
加藤:顧客ニーズに合わせた商品開発を、産地に指示しているということですね。
町田:そこはやはり、最終製品の品質向上は意識しています。商いとしては「顧客対応」と「製品の品質向上」の両輪を回しているという感じがしますね。わが社としては、産地とのコミュニケーションを通じて、顧客ニーズに即した商品生産を指示しています。逆に、生産者はわが社の指示を信じて作ってくれるという信頼感があります。
さらに言えば、指示というほど強制力が強いものではなく、「こういう市場ニーズがあるから、それに合わせて作ってよ」といったコミュニケーションであり、江戸周辺の鰹節の産地と当社をはじめとした江戸の商人の信頼という関係性が確立されていたということだと思います。江戸時代の鰹節問屋で、相応の規模の商いを、今でも続けられているのは当社しかいませんが、当時の江戸には、鰹節問屋がたくさんいました。それぞれの店が産地とどういう関係だったかということまで明確には分かりませんが、生産と販売の連携はできていたと思います。
髙津:同じ鰹節でも荒節だと1~2ヵ月でできますが、本枯鰹節を生産する場合は、約半年くらいかかります。
新井:この本枯鰹節の生産工程が、時間がかかるだけでなく手間ひまがかかるものなのですね。だからこそ、この投下労働の違いを、商品価値の違いとして市場に認識させ、値段の違いにまで反映させるべきだと考えています。
荒節はカビ付けなしですが、枯節は保存性と風味の向上につながるカビ付けと天日干しを2回以上、本枯鰹節に至っては4回以上繰り返して生産されていると聞いています。この「面倒さ」が贅沢性というか商品のクオリティを高めたことになると思います。そのために必要な生産工程を考えると、産地では「楽な方」に流れがちだと思います。
日本の食文化を守るためには、御社のように目利きができる中間流通が、品質を極めるというところに生産者を引っ張っていってくれることが大事だと思います。産地としては、生産品を捌いてくれる流通業者が必要です。
本枯節は圧倒的に品質が違います。それが今の日本食文化であり、和食の本当の旨味を出せるものに結びついていくというのが好ましい話であるはずです。この目利きができるつなぎ手がいないと、産地の人は、そんな面倒なことは怖くてできません。引き取り手が価値を求めてくれるということが重要です。
髙津:仰る通りの役割を私たちは担っていかなくてはいけないと思っています。採算だけを考えると、数量自体も本枯鰹節は、全体の数%しかありません。でも、それが本来の鰹節の姿になっているはずです。
町田:本枯鰹節を産地で作ってもらうにあたり、その当時に番付があったことは効果があったと思います。作り手にはプライドがありますから、多分、良い商品を作ることに向けて、産地を説得するのにすごく大事だったのではないでしょうか。やはり自尊心をくすぐるものですね。後は、生産と流通が一緒にやっていこうと声をかけることは安心感につながったでしょう。
新井:そのように御社のような立場の人が、うまく産地を育ててくれたということが、今の日本食文化につながっているように思います。産地と流通が一緒にマーケットを作るということが重要ですよね。
髙津:今の時代でいえば、食べログのようなものですね。食に対するランキングを見せることで購入者に安心感を与えているということですよね。
ファミリービジネスが社員の安心感に
加藤:御社のようにファミリービジネス(髙津家)でやっている場合と、非ファミリービジネスで経営している場合の、経営者と社員の関係にどのような違いがあるとお考えでしょうか。髙津家の古文書では、いろいろなビジネスをやっていく時の行動規範が書かれているとのお話で、その説明内容が社員に腹落ちするものであると、みんなが一緒になって共感しながらビジネスができるように思われ、それが社員の満足度を上げることになると思います。ファミリービジネスならではの社員と共感を作り上げていくプロセスです。社員と経営者の意識が一つになるようなイメージですが、そういうことが実現するように何か工夫していることはありますか。
髙津:江戸時代は職住が一緒だったので、髙津家と働く人も一緒に過ごし、仕事も生活も密接だったと思います。それが、徐々に離れてきますが、それでも先代の頃は、自宅に生産者や社員、得意先がよくいらしてました。そういうところは、私が見ていても、家と仕事が近い状況で、社員とも家族付き合いのような関係が多かったです。ただ私の代になって、現在では、家にいろいろな方が来るというのはなくなっています。今は結果的にはドライな関係になっているかもしれません。昔は、髙津家が、お客様を迎える迎賓館の役割を果たしていたと思います。今はやめてしまいましたが、以前は3ヵ月に1回社員を集めて誕生会も開いていました。平成の頃は、外部の場所を使って開催した時期もありました。また、昔は社員旅行もありました。年に1回、3月17日に創業祭ということで全社員が集まってパーティーも開催していました。最近では、320周年の時にパーティーを開催しました。
加藤:そういう意味でいうと、以前よりはちょっとドライになっているということですね。社長は最初に髙島屋にお勤めされた経験がありますが、違いを感じますか。先ほどの、かつての職住近接の経験が、社員みんなで大きな家族というような感じはありますか。
髙津:多分、当社の中では、家族的な感じでみんなが一緒になるという要望はあるのだと思います。コロナ禍の時期に、みんなで集まることができなくなり、収束後の2023年春に社員が集まる機会を一回催しました。その時は、社員が大勢参加しましたし、社員からこのような機会は欲しいという声も聞こえました。当社の社員は300人くらいですが、会社の普段の仕事が細分化されて多岐にわたり専門性が高まっているので、社内でも他のセクションのことがよくわからないことがあります。社員同士も同じ社内でも接する機会が限られてくると、社員が相互にわからない状況になりますので、社員同士が集まれるような場があってもいいと思っています。
新井:地方に本拠を置く企業と東京に本拠を置く企業では、社員構成が違いますね。地方企業は地元出身者が圧倒的に多いですが、東京はいろいろな地域の出身がいるので、その影響もあると思います。ちなみに、御社では社員の満足度調査は積極的にされていますか。
髙津:はい。総務が主体に動いています。最近、社員の声を聞くと、健康や働き方改善の意識が強いですね。
加藤:社員行事について、社員の意識として仕事か仕事外かを尋ねられることはありますか。
髙津:そういう人もいますが、時間によります。懇親の場は夜に実施するので時間外になります。社内行事も仕事としてやる場合は仕事として残業をつけていいとアナウンスする場合もあります。働き方のルールの中でそれに準じなければいけない部分も多いです。
加藤:町田部長からご覧になって、社長・当主と、他の社員さんとの関係はどう思いますか。
町田:すごく近いという気はします。私は、広報の仕事もするので特に近いですが、他の部署の社員も近く感じていると思います。当社は、社長室がオフィスに隣接していますし、社長が普通にオフィスを歩き回っています。本社スペースをワンフロアにしていますから、何かあればすぐに声かけできるという環境です。
新井:町田部長は、おそらく入社する時に、にんべんがファミリービジネスであり、歴史のある老舗企業だという前提で選んでいらっしゃいますよね。それは安心感につながりましたか。
町田:当時は先代の時代ですが、すごく実直に仕事している会社という感じがして、すごく信頼感がありました。特に、私の場合は祖母が若い頃に、東京上野辺りに住んでいて、この辺りのことをよく知っていましたから、にんべんに就職すると言ったらすごく喜んでくれたことを覚えています。
新井:歴史に裏打ちされたブランド力ですね。信頼感があり、長く続いてきた重みと、安心感、安定感が違いますよね。
町田:そういう意味では、就職活動をして会社に触れて入社を決めましたが、入社後に「ああ、こういうことなんだ」というのはすごく感じました。やはり長く続けている会社ならではの、ブレなさとでも言うものが、一番違います。私が若手社員で入った当時は、先代の社長ですが、貫禄というか、どっしりした感じがありました。あと、先輩社員の方々も、ガチャガチャしていないという感じです。穏やかに仕事をしているという感じはありました。
加藤:老舗の余裕みたいなものですね。
髙津:それは今でもあるように感じます。最近入社される人もあまりガチャガチャしていない人というような傾向が強いです。
加藤:とても面白いお話です。町田部長ぐらいの50代の社員でしたらそんな感じというのはイメージできますが、今の20代の社員のもそうなんですね。
髙津:多いと思います。大きく括れば、食品業界を選んでいる時点で、他の業界を選択する人と比べて、割合に落ち着いた人が多いと思いますよ。また、入社する人の学部もある程度限られていますから、どうしてもそういう傾向があると思います。
協力し合い街全体の集客力を上げる
新井:そういう中でも、時代の変容の中でチャレンジする人がいないといけないと思います。その中で、御社が日本橋の活性化について取り組んだところがあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
髙津:2004年に三井不動産がコレド室町を建てるタイミングで一緒に日本橋エリアを再開発しないかという話が持ち込まれました。それから10年かけてコレド室町が3棟できました。自分は2003年に営業から戻り、日本橋本社の総務に勤務し始めたんですが、その時の日本橋は非常に寂しい状況でした。本店の来店客は贈答目的のために来る人ばかりで1日数十人でした。
そんな時にお話が持ち込まれたので、先代が前向きにやるという判断をしました。その時、ちょうど自分が30代で町会長(日本橋室町2丁目町会)を引き受けていたこともあり、日本橋に関わる機会が増えました。ちなみに、その後町会長を10年やり、今の町会長は千疋屋さんに代わっています。その時に、他の町会の人とも知り合う機会が増えました。日本橋の人たちが一緒に行う行事として、毎年7月に「橋洗い」があるのですが、それを主催する日本橋保存会とも関わるようになりました。
加藤:2004年からの三井不動産の再開発に町として協力したということですね。今は、日本橋界隈は観光客で非常に賑わってます。特に、他の観光地と比べて外国人観光客が少ないということに驚きました。
髙津:その再開発のコンセプトは、三井不動産のほうで「残しながら、蘇らせながら作っていく」を示され、いろいろな支援もしてくれました。町全体を一緒に考えるというスタンスです。町全体のアクションはあるものの、地域の人は個々の再開発があるので、うまく折り合いをつけていくのは難しいですね。特に地権者が多いと、まとめることが難しいです。
新井:日本橋地域の再開発を見ると、他から店を呼ぶというのもありますが、まずは今あるお店をどう生かそうかという意識が強いですよね。地域にある老舗店舗を活かしていくという方法ですよね。あと、賑わいが戻っているのは、湾岸地域の人口増加の効果もありますよね。
髙津:昔から、日本橋の来店客は東京の東側からが多かったのですが、最近は湾岸の人口が増えて自転車で来る方も増えています。
あとは集客のために巡回バスもあります。都や区がやるものもあれば、民間のものもあります。
加藤:お話をお聞きすると、日本橋の再開発の事例が、国内の他の地域の参考にはなかなかできないものだということがわかってきました。圧倒的に後背人口が違いますね。また、日本橋ならではの歴史もありますよね。
町田:先にも髙津が触れていましたが、再開発に着手する前は、この地域は本当に週末はゴーストタウンとなり、衰退する地域でした。
髙津:それが三井不動産の再開発によって再生しました。ただ、この地域には、私どものほか、千疋屋さんとか、榮太樓さん、山本海苔店さんとか、老舗企業はたくさんあります。こういう企業がその気になることが大事であり、今は各社とも街との関わりに積極的に加わるようになっています。再開発をきっかけにして、町とのつながりが、以前よりも強くなっているという気がします。再開発というものを利用して、町のつながりが深くなっているということです。各社とも先代社長は元気なのですが、ちょうど移行期になっています。次世代につなぐ時期に来ていることも新たな取組みが進むことと関係しています。
加藤:次世代の方々が、一つのきっかけで再開発とか活性化の取組みに協力し、いろいろな知恵を出し合うことができるようになると、相乗効果でよくなる可能性があるということですね。今、衰退が進む商店街も、何かのきっかけがあれば、活気を戻すことができるかもしれないと思いました。今は、みんなが協力的ではないケースが多く、特に先代の人たちは、自分の考え方にこだわってしまいがちのように思います。
町田:街がにぎわうには、それぞれのお店が街のコンテンツになるかどうかというのが大事ではないでしょうか。企業が採算を維持するには、そこが大きいと思います。街の集客力が上がってきた時に、集客のカギになるようなコンテンツとして、自分の店を位置づけられれば、メリットは大きいと思います。街にとってのメリットもあって、企業の集客力も上がるという双方の利益が一致するという部分がしっかり見えてくるとうまく回るようになる。その相乗作用がうまく機能したのが、室町というエリアだったのではないかと思っています。
そのモデルをうまく活用できれば、日本橋の他のエリアも活性化すると思います。集客のコアがあることで、周辺にも広げやすいということです。多くのお客様に来てもらい、接客するお客様が増えると実感できることが大事です。1日数十人しか来ないお店が、活性化して数百人近い集客ができるようなお店になったというのは、ものすごい出来事です。そのようなビジネスモデルの大転換みたいなものが、一つのきっかけで起きるなら、その波に乗ってみたいと皆さん思うのではないでしょうか。
お客さんが気づいていない価値を提供する
加藤:なるほど。地域とのつながりはわかりました。最後に、取引先との関係性をお聞きします。共同で商品開発を行うにあたり、長く続いている取引先さんとの信頼感というのは、どのようにお考えでしょうか。
髙津:先ほどの江戸時代の話ですが、100年以上取引いただいてる鰹節生産者もいらっしゃいます。静岡県の西伊豆の業者ですが、その企業は今でも取引が続いています。ほかにも、長くつながっている企業は多いです。一方で、新しい商品についても、例えば「つゆの素」などは千葉県の醤油屋さんに作っていただいていますが、60年間取引が続いています。総じて、長くお付き合いしている協力工場が多いです。
加藤:短期的な利益を追求する取引ではなく、長く取引をできるような人たちとの関係を重視されるということでしょうか。
髙津:現在、つゆの素は当社のメイン商品になってますので、同じ工場で継続して生産していただき我々も主力で販売してます。生産と販売の間で長い協力関係が続いています。一方で、鰹節そのものについては、生産数量が増えていないというのが実態です。いくつかの生産者は鰹節生産をやめて惣菜を製造しています。当社としては、取引商品を変えて、取引を続けているという企業もあります。取扱商品の中では、短期のスポット取引や企画品もありますが、定番品として長期間売っていくものもあります。当社のブランドで販売している商品の中で、フリーズドライの味噌汁を扱っていますが、それは自前の設備がないので生産は外注です。取引先から見ても、当社との取引が続いているのは信頼につながっているというお話を、長い取引がある企業から聞いています。
加藤:取引先にとって「にんべんが自分たちが作っている商品を扱っている」というのは、品質が認められている証であり、ブランド価値があると認めてもらえているということですね。その長い取引関係が重要だと捉えているということだと思います。
髙津:我々としては、そのように取引先に感じていただきたいと思っています。
町田:鰹節に関しては、取引先との信頼関係は結構あると思います。そこは、私たちが仕入れ商品をきちんと選別して、品質のフィードバックをして、あまり良くない時には、それを伝えています。
新井:鰹節を目利きすることができる人がいるということですね。
町田:わが社の中で、そのような役割を担っている人がいます。場合によっては「返品する」こともあります。でも、それができるコミュニケーションが取れているということが大事な点です。取引先との間で、信頼関係がないと「返品する」ことはできません。我々は、鰹節の仕入れについてはそのようなことができています。
新井:御社において、「つゆの素」をはじめ、にんべんの名前をつけるからには、こだわるところがあるということですね。惣菜を作られる時のこだわりは、出汁の妙ということでしょうか。
髙津:最近、新たな商品領域として、惣菜や料理も提供しています。我々が料理の中で自分たちの強みを活かせるとすると、鰹節の味だったり、出汁を活かした料理になります。今では、家で鰹節を削る習慣が少なくなり、さらに料理を家庭で作るということも減ってきました。家庭の中で、時短の意識や節約傾向が高まり、中食やすでに出来上がったものを食べる機会が増えています。こうした変化の中で、鰹節を味わっていただく機会を増やすことが、我々が取り組んでいることです。
加藤:御社の店頭を見ると、鰹節の素材だけではなく、それを利用した惣菜など出汁を活かした組み合わせ商品も開発していますね。御社の取組みは大企業の取組みとどこか違いはありますか。
髙津:我々は、鰹節を長く扱ってきた会社です。鰹節に対する専門性は、我々の方が高く、鰹節のノウハウを持っている点に優位性があると思っています。鰹節の一番良い味を活かすことができているということです。
加藤:御社の最大の強みは、鰹節の中でも本枯鰹節のような高級品に対するところの目利きにあると思います。そして、それをそのまま売るのと、そのノウハウを生かして加工商品を売るのかという違いですね。そこが、大量生産する大手メーカーさんとは違うということでしょうか。もちろん、大手メーカーさんも昔から脈々と作られてきたものにどうやって接近していくのかという大変な努力をしていると思います。この比較として、老舗で長く鰹節を扱っている会社ならではの強みはどこにあるでしょうか。
髙津:難しい質問ですが、我々はお客様に直接販売する小売チャネルも持っているので、専門店として商品そのものを直接提供できています。鰹節そのものから作られた味を提供できていると自負しています。そこが違いであり、結果として価格の違いも生じてきます。大手メーカーさんのように大量生産すると、量販店経由で販売するので、我々のような直営店とは販売する量が違います。一方で、彼らが直営店で販売するようなものが作れるかというと、仕事の仕方を変えないと難しいのではないでしょうか。もちろん、一般流通を通じて小売店で並べられる商品に対しては、大手メーカーはすごい技術力を持っています。彼らの方が優れた部分も多いとは思います。しかしながら、我々は専門店的な部分で、彼らとは違うものを提供できているという自負はあります。
加藤:有難うございます。私としては、まったく違う二つの市場があると思っています。価格が高くても、品質へのこだわりを評価し買ってもらえる商品ゾーンの存在意義は必要で、世の中の商品がすべてコモディティ化する必要はないと思います。問題は差別化の軸だと思います。
町田:私たちの商品開発のアプローチは、大手メーカーと同列に考えることは難しいです。大手メーカーはマーケットインで商品を作りますよね。市場を徹底的に分析して、ここにこれだけのマーケットがある、このマーケットにはこのぐらいの価格帯で商品を提供する必要がある。その商品を提供するための技術的な課題をクリアして、価格と価値がきちんとマーケットにフィットするように商品を作っていく、という考え方ですね。こういう方法で行くから、大量生産の中でのボリュームゾーンを取りにいくというビジネスが確立できるのであり、大手メーカーはそこを狙っています。
一方で、私たちはそのようなアプローチでは戦いきれません。マーケットインで商品を考えると、価値提供の部分で大手企業に追いつけなくなるので、逆に、専門業者ならではのプロダクトアウト発想で、価値をつけていくというポジションになります。要はお客さん自身がまだ気がついていないであろう領域を、私たちの専門性を武器にして商品提供し、その新しい価値に気づいてもらうというアプローチですね。プロダクトアウトでお客さんに気づかせるという手法、商品を提供することでこのような美味しさがあるんだ、このような価値があるんだということに気づいてもらう、暮らしの中に新しい価値を発見することの喜びを提供できるかということが私たちの存在意義です。
このような商品を提供し、私たちの商品のファンになってもらうという軸を取らないと陣取れないということですね。大手メーカーとは、マーケティング手法の違いがあります。そこに優位に働くブランド価値が、我々には歴史と専門性に支えられてしっかり備わっていると考えていますので、そのようなコミュニケーションがマーケティング的に重要だと考えています。
加藤:とても面白いですね。それを提供できるだけのブランドや信頼が御社にはあるということで、「にんべん」ならではという価値提供ですね。取引先もお客様もその価値を認めているからこそ、そもそも比べるべきものではないということでしょうね。
町田:そうはいっても、大手メーカーがあの価格であれだけのものを提供できるのは、やはり技術力というのはすごいということを思い知らされます。
新井:鰹節についていえば、御社がこだわる技術力というのは、やはりすごいと思います。天然の力であの風味を生み出すのは、至難の業だと思います。
町田:ある意味、技術的に同じようなものが作れたとしても、300年以上の歴史を持つ専門店のすごみがあるはずだと考えています。そこは技術ではカバーできないはずだと信じています。
髙津:私たちは、生産者がこだわり作り続けてくれることを、いかにして市場に伝えることができるか、代弁者としての役割を任されていると思っています。
町田:生産者との関係では、目利きということですね。品質を担保する責任を私たちは担っています。それが私たち独自のスキルだと考え、それが生産者にも消費者にも信頼されているということだと思います。
髙津:先ほどの話で、生産者目線の説明をしましたが、決してマーケットを無視して、すべてプロダクトアウトだけというわけではないです。生産者と一緒に成長、継続、持続をしていくためには、私たちはマーケットを見なければいけません。生産者がわからないことをきちんと伝えていく役割です。その役割と、自分たちが持っている価値をすり合わせていくことで、マーケットについていくだけではない、新しい価値を創造することができるかというところが私たちがやるべきことだと考えています。
新井:本日は、御社の長い歴史の中での苦労とともに、日本橋とのかかわりや足元の市場獲得に関するお話までお聞かせいただき、誠にありがとうございました。
◆略歴
たかつ・いへえ 株式会社にんべん13代当主 代表取締役社長。1970年東京生まれ。江戸時代より続く鰹節を商う家の長男として生まれる。1993年、青山学院大学を卒業後、株式会社髙島屋に入社、横浜店勤務。1996年、株式会社にんべん入社、2009年、同社代表取締役社長に就任、現在に至る。
2010年、だしコミュニティとして「日本橋だし場」をオープン。2014年、だしの新たな可能性を楽しめるレストランをオープン。鰹節やだしの可能性と新しい使い方を提案する事業展開を図る。2007年から日本橋室町二丁目町会長を11年務め、現在は副会長。2020年2月、13代 髙津伊兵衛を襲名。
一般社団法人日本鰹節協会 会長理事、一般社団法人全国削節工業協会 副会長、NPO法人日本料理アカデミー正会員