シェフと60分:中国料理「知味斎」総料理長・木村政敏氏
人の一言が一生忘れられない教訓になることがある。
二九歳で料理長に就任直後、一三〇回にはなる「知味の集い」を担当しろとの命を受ける。
メンバーは料理人、料理研究家などさまざまな分野の人たち。一日七〇人、三日間通しで、台湾の料理人との分担作業ではあったが、「食べるものものどを通らず緊張の極みだった」。
なんとかこなしホッとしたところで、中山時子先生から「今日の料理は最低でしたね。あなたのウジウジした精神状態がすべて料理に出ている」との評。
「全身全霊をかけて一〇〇%出し切ったつもりだっただけに、頭を金づちで殴られた感じだった」
後日冷静になったところで、木村はよくやったといえば、この先勉強しないだろう。ちょっとお灸(きゅう)をすえておこうという親心と受けとめる。
天狗になる心を静めてくれた一言。当座のショックは大きい。しかしこの一言で、料理は自分のすべてが出る、またここまで料理を見抜く人もいるのかと思うと、作って食べてもらうことは恐ろしいことと改めて感じる。
「ここが私の料理人人生のターニングポイントだった」と述懐する。
料理長を任されたとき、思い切った方針を打ち出す。
「まず自分のカラーを打ち出すこと。先代は四川料理。これで勝負をしたのではかなわない。七年間仕込んでもらったので悩んだが、四川料理を脱皮しよう、△△料理と決めつけない、木村流でいこう」と。
台湾からは湖南料理のコックが三年間。続いて福建省、広東省からも同じく三年間招き、厨房スタッフ全員が徹底して学ぶ。
今でこそ中国から多くの料理人が招かれる時代だが、二五年前にはそれほど普遍的ではなかった。
スタッフが留学したのでは人数に限りがある。招けば全員が学べる。小笹社長の合理的発想だ。
木村料理長も「これでなんでもありの店にした」と自信をもつ。
このころ、来日した料理人が欲しがる中国野菜を、すべて自家栽培にした。
借地三〇〇〇坪。年間約二〇品目。「うちは、厨房スタッフには三年たつと全員畑仕事をさせます」と涼しい顔。
労働力としての期待もあるが、自分で手塩をかけて栽培し、生長の過程を見届ければ、自然に料理をおいしく作ろうという思いがわくだろうというわけだ。
「八百屋から仕入れたらうちのカラーが失われる。朝摘みて夕に食すがコンセプト」と野菜栽培を貫き通す。
厨房スタッフで結成する「口福会」は、機会をみては外に出て食べる勉強会をする。
ときにみんなで食べに行きたいが、良い店はないものかと言ってくる。そうしたとき、知り合いの料理長に若い者が行くからよろしくと頼んでおく。
ありきたりの料理を食べてきたのでは勉強にならない。こうした意欲のある者にはできるだけチャンスを与えるのが木村流。
ただし、費用は身銭を切るのが原則。
「私の経験則では、すべてお膳立てしたのでは身に付かない。もとを取らなくてはという気持ちをもたせなくては。昨年は五〇〇〇円を負担させた」
以前は研究費として会社が負担していたが、現在は運営費の一部を自動販売機の上がり、木村料理長の稿料や料理学校講師の報酬などをプールして充てている。
「一八人のスタッフがいるが、本当に勉強しているのはそのうちの三分の一」と苦笑する。
(文・カメラ 上田喜子)
●プロフィル
昭和27年茨城県水海道市生まれ。料理人を志し静山荘に入社する。八重洲店は和・洋・中部門があり、当初は和食を目指すが、中華部門料理長から「お前は中華に向いている中華をやれ」の一言で中華へと心を決める。ところが突然の箱根「小湧園」への転勤命令、意に添わず先輩たちと退社。
ときは札幌オリンピック前年。これに合わせオープンしたレストランへ親方とともに入社するが倒産。やむなく帰京し、「知味斎」に入ったのが二二歳。二九歳で本店料理長、三五歳で本店のほか柏西口店、柏そごう店、砂町店の総料理長に就任。女子栄養大学などで講師も務める。
●私の愛用食材 タラバガニの肩コロと親爪
「業者からタラバガニの肩関節の肉を使う人は少ない。なんとか使う方法はないかと相談があり、サンプルを使ったところなかなかいける。肩コロとはそれ以来の付き合い」という木村料理長。
タラバガニの脚と味噌を取った後、残った肩関節の肉を急速冷凍したのが肩コロ。コロコロした形からこの名称となったらしい。
「フレッシュが冷凍してあるのでジューシーさがあり、ゆでたものに比べ味と食感がまったく違う。今までにない画期的商品」
粉をまぶし、油を通してマヨネーズあえ、炒め物にと幅広く使う。
もう一つが「親爪」。タラバガニの爪は一つが小さく、一つは大きい。この大きい方を使うが、一匹で一つという希少性と目を射る大きさから重宝する食材という。
油で揚げて甘辛のたれをかけた定番メニューは、お客にも大人気。
問い合わせ先=㈲フーズテック(0297・47・2219)