シェフと60分:アクアパッツア総料理長・日高良実氏

1999.03.01 173号 19面

フランス料理からイタリア料理に転向した料理人は数多い。日高シェフもその一人。

「アランシャペルの店で修業中、どちらかといえば落ちこぼれでしかられるばかりの毎日。また華々しく脚光を浴びるフランス帰りのシェフたちを間近に見て、何か自分らしさを見出そうと焦っていました」

入店後、二年目のことだった。

心の隙間に入り込んだのが、アルバイト時代にまかないで来る日も来る日も食べたカルボナーラの味。夜の忙しい時間帯のため、ゆで置きのスパゲティを使った簡単料理だ。当時はおいしい味として脳裏に焼き付いてはいたが、これがイタリア料理に転向するきっかけになるとは予想だにしなかった。

だれに聞いても知る人もいないイタリア料理は、スパゲティかピザが知られるくらい。

「周りではなんでイタリアンをやるのかと不思議がられたものです」

最終的に意を決したきっかけは、リストランテ・ハナダのルイシェフが、気軽に豆腐ステーキを作っているのを見てから。幼いころ食べたおばあちゃんの料理を思い起こし、日本の食材を使いイタリア料理に仕上げる。料理人すべてが、フランス本場のトリュフだ舌ビラメだと興奮していた時代のことだ。

「外国人シェフが逆に日本の食材を気軽に使っているんですから、新鮮でした」

人を介して「ハナダ」に入り、さらに確信をもつ。

料理を作っている過程はかなり雑。ソースが分離していることもたびたび。だが食べてみると不思議においしい。安心できる味だ。

「食べてみて飽きない。まさにマンマの味です」

思い起こせば、アランシャペルの味は「これが本場フランス料理の味、覚えなきゃいけない味と、頭に言い聞かせていたのです」

じゅばく感から開放されて後、一挙にイタリア料理の道に突き進んだことはいうまでもない。

若さ故の気負いもあったろうが、料理への道を全力疾走してきた。四〇歳を過ぎた今、「いつも料理のことしか考えられない料理ばかの時代は終わった」と反省しきり。

飲食店では一〇時間勤務はザラ。自分の時間さえないようでは趣味を持つこともできない。幅広い人間性が、いつかは客席での余裕あるサービスにつながると信じ「早く売上げを上げ、週休二日制にもっていきたい」と自らにプレッシャーをかける。

現在展開する三店舗のスタッフを常に流動的に移動させる。一つの仕事に慣れるとキッチン志望でもサービスをさせ、どんどん新しい仕事を覚えさせる。講習会などで外に出るチャンスも多いが、助手として連れ出す。

「片寄った人間にしたくないから、いろいろ経験させるんです」

自らこうだと思い込んでいたイタリアが、今どんどん変化している。

保守的だったイタリアの料理界。請われて日本の食材を使ってメニューを披露した。板海苔を使いニョッキのソースを作ったところ、思いのほか大好評。すしでは少しずつ受け入れられているが、海苔を食べない食文化をもち、ソースに使うなどもってのほか。今までには考えられないことだった。

食材がボーダーレスになり「今後、イタリアンがベースのだれだれさんの料理、というおもしろい時代が来ると予感する」。ただし、それにはお金を払ってでも行きたくなるレストランづくりをしなければいけないし、それに向かう次世代料理人が続くことを期待する。

「アクアパッツァ」とは、アクアが水、パッツァが気狂いで、気狂い水の意。南イタリアで知られている漁師料理の一つ。魚を焼いてニンニク、ケッパー、トマトなどに普通なら白ワインやブイヨンなどのだしを入れるところ、簡単に水を入れ煮込んだもの。鮮度の良いものを使うからできる料理である。

「この料理に出合った時、これがまさに料理の原点。シンプルかつうまい料理につきる。いつか店を出す時はこの店名と心に決めていた」

オープン当初は料理人の技術を加えてこそ料理が商品となり、代金が支払われるという思いがあった。

たまたま食べ過ぎで調子が悪いという客が来店、ゴテゴテの料理より素材の味を生かし、ゆでただけのものを彩りよく盛りつけ出したところ、気に入り喜んで帰っていくという一事があった。

「お客が求めるものを察知し、そのまま出せば良い」。それには良い食材を探し当て、良い状態のものを選ぶコーディネーター的仕事が料理人には求められることを覚える。以後、食材へのこだわりは全店のコンセプトとして貫き通す。

おいしく、栄養豊富な皮付ニンジン、カブをそのまま出した時には、さすがに客の中には苦情を言う者もいた。

「どこまで手を加えて出せば喜んでもらえるか」支持する客、離れていく客、千差万別。「イタリア料理らしくおいしく食べてもらうには妙に気張らず、厳選した素材を生かす」姿勢は頑として崩さない。

◆プロフィル

一九五七年、神戸市生まれ。高校時代、八百屋の配達、ゴルフ場のキャディ、喫茶店でのウエーターなどのアルバイトをするが、見よう見まねで作ったスパゲティに友達が喜ぶのを見、漠然とながら料理の威力を感じる。大学受験の失敗を機に調理師学校へ入学。卒業後は神戸ポートピアホテルの「アランシャペル」などでフランス料理の修業を積む。当時、フランス帰りのシェフが脚光を浴びる中、あえて未知の世界、イタリア料理に自らを賭ける。八六年、二八歳でイタリアに渡り、精力的に北から南まで地方料理を武者修業。八九年に帰国、リストランテ山崎の料理長を経て、西麻布の「アクアパッツァ」料理長に就く。九五年、青山二号店、翌年三号店の「マンジャペッシェ」がオープン、三店の総料理長として活躍する。

文   上田喜子

カメラ 岡安秀一

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