忘れられぬ味(20)オタフクソース・佐々木尉文社長 青春讃歌、お好み焼き

広島にあの原爆が落とされて一二年が経ち、私は高校に通っていた。広島の中心から三~四キロメートル西にある舟入高校である。毎日放課後のクラブ活動の柔道で目いっぱいの汗を流していた。

今の学生とは違い、勉強もいい加減で、「遊ぶこと」と「食べること」ばかりが頭にあった。毎日の日課は、朝四時限の授業の後、弁当をペロッと平らげ、眠い目をこすりながらあとの二時限を何とかすませた後、一目散に駆け足で裏門を乗り越え、目的地のおばちゃんの焼いてくれる「お好み焼」へ向かった。

広島のお好み焼きは戦後間もなく誕生した。戦地から引き揚げてくる夫を心待ちにしていた残された夫人がとりあえずの糧にお好み焼き店を始めていた。私が高校へ通う頃はプロパンガスになっていたと思うが、終戦当時は練炭の上へ鉄板を置いて焼いていた。換気が悪く、一酸化炭素で「頭が痛い」と言っていた人もいたように思う。

お好み焼きは水で溶いた小麦粉を薄く延ばし、その上にとろろ昆布、カツオ、キャベツ、モヤシを重ねて焼いたシンプルな「広島流お好み焼き」であった。

食べ盛りの高校生にとっては空腹を満たすために中華麺を入れる。その中華麺を二玉あるいは三玉入れる大食漢もいた。今では当たり前のメニューになっている卵と豚肉は贅沢でオプションであった。中には自宅の庭先で飼っている鶏が産んだ卵を持ってきて入れてもらう人もいたものだ。

その「野菜そば入り」のお好み焼きができるまで店の漫画本を見ながら待っていた。頁の間にソースのついた麺の切れ端が茶色くなってついていたのが懐かしい。でき上がったお好み焼きにたっぷりのお好みソースを塗り、ヘラで器用に口に持っていく。最高の瞬間だ。あの当時で一〇円程度だったと思う。食べ終わると急いで学校の柔道場へ走って帰っていった。あのお好み焼きほどおいしかったものは今でも食べたことがない。ソースのこげる香ばしいかおりは、どんな世界の素晴らしい料理にも勝る食欲をそそるかおりだ。

当時のソースは私の父や兄達がお好み焼きの店主の方々と一緒になって作り出した逸品である。それが現在全国の多くの方々に親しんでいただいていることを考えるとこれほどうれしいことはない。

(オタフクソース(株)代表取締役社長)

日本食糧新聞の第8668号(2000年3月31日付)の紙面

※法人用電子版ユーザーは1943年以降の新聞を紙面形式でご覧いただけます。
紙面ビューアー – ご利用ガイド「日本食糧新聞電子版」

購読プランはこちら

非会員の方はこちら

続きを読む

会員の方はこちら

書籍紹介