シェフと60分 ホテル京急取締役中国料理部長・斎藤昌一氏
「いろいろなモノの値段が上がっている中、料理の値段は、そう上がっていないと思う」
この“ある程度の値段”の中で業界が生きていくには、「安い食材を探し出し、こんな食材があるよ、と提唱するしかない」とする。
カナダ産タラバガニが品薄となり高騰した頃、たまたまテレビ画面にカニの水揚げシーンが映り、早速、南米チリまで飛んでしまったこともある。結果は、三分の一の価格で輸入となったが、一年半位で缶詰業者が入り込み、食材としてのうま味がなくなった。
また、香港には年間を通し何回も行くうち友人が増え、彼らを通じてフカヒレ、ツバメの巣の集積地であるタイの中国人マフィアの世界に入り込んだり、香港の食材の三〇%を担うベトナムへも食材研究に訪れている。
「ことの発端は、食材が手に入らなかったから」だが、これを逆手に良質、廉価な食材を求めて国内、国外を問わず地球規模で出向き、積極的にメニューにとり込む。
ホテル内レストランのほか、銀座「楼蘭」がオープンキッチンであるため、客からの要望、情報提供などのコミュニケーションが密となり、新しい食材開発の意欲をかきたてられたという。
かつて「食は広州にあり」といわれていたが、今や「食は香港にあり」といわれるほどに、広東料理の主力は香港に移っている。
元来、中国料理は皿へ大盛りにし、盛りつけに神経を使わない。日本人は繊細なため皿と料理のバランスなど、細かく神経を使うが、これが香港に伝わり、今では香港と日本は、「良い意味の影響を与え合う仲」となり、新しい中国料理が生まれてきた。
香港は資源のない国だけに毎年盛大な料理コンクールを開催するなど、食に対し大変な力を入れている。
一三ヵ国からの一審査員として参加しながら、「興味しんしんです。ただ残念なのは、審査以前に落ちた人の作品が見られないこと」。この中に自分の欲しいモノが隠されていると確信するからだ。
「基本的な調理法は、昔からのものを伝承していくが、素材、盛りつけ、味つけは少しずつ変わっている」という広東料理も、中国本土が「食は広州にあり」の言葉を取り戻すべく意欲を示していることから、各国が切磋琢磨し、新しい広東料理の裾野の広がりは確立された。
料理の道に入った時、「誰でも、自分の店を持とうという夢をもっているはず。一生、調理人で暮らそうという人はいない」。
それには、初めから計数管理を知らなくてはいけないとして、「徹底した原価意識を持たせる」教育法をとる。
ホテルの仕入れ部から出向してくるモノの値段、使う量など、どんどん質問し答えさせる。また、肉のスジを取る時、ベテランの包丁捌きで歩留まりに差異が生じることを理論と実践で納得させるなど、「ほかのホテルより厳しい教育法をとっている」といってはばからない。
「調理人には、二つのタイプがある。一つは、どんどん奥があると追求し、深みにはまるタイプ、もう一つは、深追いをせず、これまでと止まるタイプ」
職人として深く入って行くか、経営的に成り立たせるかのバランスが問題であり、「結局は、この枠を決めるのは、調理人自身であり、長くこの仕事をやれば、必ずぶつかることです」。
昔は、うまい料理をいかに作るかに腐心すれば評価された。今は、上に立つ者は、腕と人間性で引っ張るしかない。原価管理、業務管理の上、合わせて新しいものに挑戦し、自分の領域を広げていく意欲も求められる。
「食べもの屋につけば、食いっぱぐれがないといわれた時代は終わり、これからは、逆に一番難しい時代。私も何回かここを出ようかと思ったが、出て行った者のより所がなくなると思い、今も頑張っている」と笑う。
日本在住の華僑により自然発生的に生業として生まれた広東料理は、「中国飯店」に香港から来た中国人コックの流れを汲み確立されて今に脈々と続いている。
「その原点は、中国本土にあり、何千年と続いた中国料理の原点に行きつきたいという思いは、誰でも抱いていることでしょう」
このほど、日中調からの申し入れが受け入れられ、日中共同で中国料理烹調技法の出版物作製の契約が締結された。中国全土にわたって分布する料理を集め、一つの本にまとめようというもの。
「時期的に今が限界です。大仕事になるでしょうが、向こうの政府の理解もあり、二年はかかると思うが、やりとげたい」と決意を込めて語る。
かつてホテルでは、フランス料理が主流を占め、中国料理が徐々に脚光を浴び始める時代、上海、北京に続く後方に広東料理が位置づけられていた。
閉鎖的な中国人コックの世界から得たものを、一つの料理として確立させる作業の手始めがレシピ作りだった。
「それほど遅れていたのです」
日本人として初めてレシピを作り、広東料理を確立させた功績は大きい。今回の調印にはひとかたならぬ思いがあろう。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
昭和11年、東京生まれ。就職難の時代だったから入ったという料理の道。横浜「泰華楼」で六年の修業の後、料理の道を進んだからにはと、名門「中国飯店」へ一からの見習いとして入る。
当時の「中国飯店」は、中国本土から香港経由で亡命してきた優秀な料理人十数人と日本在住華僑の子弟だけからなるまったくの中国人社会だった。初の日本人採用となったのは、運転免許が買われてのこと。
ここで広東料理の奥の深さを教えてくれた譚恵氏と巡り合い、同シェフのホテルオークラ初代調理長就任により、ついて行く。昭和46年、ホテルパシフィック東京、レストラン「楼蘭」に中国料理長として入社。本年6月からホテル京急の取締役中国料理部長として「楼蘭」三店を管理すると同時に、(社)日本中国料理調理士会副会長として国際的に活躍する。
11月には、日本における本格的広東料理の確立、発展に寄与するとともに、後進の指導育成、調理師としての技能が認められ、労働大臣から「卓越技能賞」(現代の名工)を受賞、中国料理界では三人目の「現代の名工」に名を連ねることになった。