シェフと60分 赤坂東急ホテル総料理長・伊藤勝氏

1996.04.15 99号 7面

人は、その土地に住みその土地の食文化に触れ、改めて違いに驚き、戸惑うことが多い。

昭和58年頃、台湾の高雄にアンバサダーホテルがオープンし、指導かたがた手伝いに行った時、初めて台湾のお国事情を知らされたという。

ひとつにスープの注文があった時のこと。ホテルの習慣なのか、味噌汁は前日に作り冷蔵庫に入れて翌日使う。たまたま時間を置いた味噌汁の上澄みをコンソメと間違え、オニオンスープとして出してしまった。

後の祭りだ。「お客から今日のスープはおかしいと言われただけで終わったが、冷や汗をかきました。こんなことは初めての経験です」

すべてが大雑把なお国柄なのか、作り手も、客も何事もなくこの出来事をやり過ごした。

また、牛フィレ肉は、日本では掃除をしカットしてステーキにするが、向こうでは中国式に叩いて伸ばして焼く。

「注意した当初はこちらのいうとおりに直すが、すぐに戻る。元の木阿弥です」

こうしたいい加減さは、厨房に限らずホールでも同じ。

朝はバイキングで、宿泊者には食券を出すシステム。日本人宿泊者のほとんどは女性同伴だが、女性は食券がないため現金払い。

この現金はすべて従業員のポケットに入る仕組みで、マネージャー以下全員が繋がっているドロボー組織だ。

「あれがなかったら相当儲かるでしょう」と笑うが、言葉の行き違い、生活習慣の違うなかで、フランス料理を引っ提げ悪戦苦闘した当時を懐かしむかのように見える。

食い倒れの街として知られる大阪に四年弱住み、食に対する執念を目の当たりにし「その徹底ぶりに」感嘆さえ覚えたという。

食べる物に飾りは要らない。パーティーでも花は不要。その分うまいものをたくさんというわけだ。

ブッフェスタイルに慣れていないのか、乾杯が終わると同時に料理へと人が群がり、パッと退いていく。後に残った皿の上の料理は、見る影もなく消え去っている。

「まるで餌に群がる禿げ鷹のようです。特に女性の姿が目に焼き付いています。無くなるわけでもないのに、どうしてでしょうか」

それでもおいしく食べてもらおうと冷たい料理、温かい料理の出し方に腐心する。つまりブッフェが始まる三〇分前に冷たい料理をセットし、乾杯の後の雑談中の間を持たせる。「温かい料理は温かく食べて欲しいから」乾杯が始まってから肉を焼き始める手順だ。

作り手としてのこうしたこだわりがあるから「上手に食べている人を見ると、出しているほうも嬉しい。同じバイキングでも、食べ方は、大阪より東京のほうが上手です」

これも、東西の食へのこだわりかたの違いから出た現象には違いないのだが。

海に近いからといって必ずしも海の幸が求められるとは限らない。

下田に赴任中、「鳥羽の高橋さんが、海の幸を生かした料理を流行らせたのを見て、下田でもあのスタイルを真似てみた」が、二匹目の泥鰌は居らず、一年の徒労に終わってしまった。

下田の住人すべてがアワビや鯛を食べるわけではない。

「ごく一部の人が食べているのであって、むしろ肉をよく食べています」

実際、地元では高級魚介類の価格が東京の三割は安いながら、需要がないため「良いものは東京・築地にもっていかれる」

需要供給のバランスが悪い中での仕掛けだったのか、商売は成り立たず「あちらは、長い間の蓄積があっての成功」と、反省しきりだ。

一日二四時間は万人平等。

「若い頃は何とかして仕事を覚えようと一生懸命でした」

先輩と同じ時間割では仕事は覚えられない。勤務時間は、朝8時30分から夜10時頃までが当たり前の時代だ。

6時前には厨房に入り、自分ができる仕事すべてをやり終え、先輩の食事を作っておく。食事の時は先輩と一緒に食べるが、先に食べ終え片づけを済まして仕事の態勢に入る。

「こうして、先輩が仕事を始めるのを盗み見しながら仕事を覚えたのです。この時代はみんながやったことです」と、何のてらいもなく語る。

今はどうだろうか。

年間一二〇日の休み。一ヵ月一〇日休まないととりきれず、三日に一回は休みだ。

昔の人が一年で覚えたことが三~四年かかる計算。「努力をすればかなうと思うが、はっきり言って時間がかかる」

また、最近の風潮として猫も杓子もフランスに行き、三~四年修業して一人前面の輩が多く見受けられる。

時代の流れに従い料理も変化をしていく。言い尽くされてはいるが「基本がしっかりしてこそ創作、アレンジができ、所詮は日本人が求めるフランス料理を作っているのです」

向こうへ行き成功しているのは一握り。「だからこそ彼らに負けないぞという気持ちが湧いてくる」と気概を込めて語る。

文   上田喜子

カメラ 岡安秀一

昭和14年、山梨県生まれ。祖父が器用な人で、村で結婚式や法事があると全部をとりしきり、マグロをさばいたり、羊羹を流したりしていたほど。そのためか、幼い頃から祖父について手伝いをしており、料理の道に入ったのも自然の成り行き。

昭和36年、銀座東急ホテルに入社以来、博多、銀座、下田、大阪などの勤務を経て、昨年7月現職に就く。

フランス料理の奥深さに取りつかれ、「これで良いというものはない。体が続く限り、やっていて良かったと思うようにやりたい」と日々邁進する。

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