だから素敵! あの人のヘルシートーク:競泳・成田真由美さん
もう一つのオリンピックといわれるパラリンピック。「シドニー」において、競泳で6つの「金」を含む7つのメダルを獲得。4種目で世界新を出した「水の女王」の成田真由美さんは、なんと子供の頃はカナヅチだったという。世界を驚かせた記録と輝かしい笑顔の影にある、どんな状況下でも諦めない意志力、自分を幸福に導く精神力をじっくり聞いた。
◆笹カマボコにそそられて
私はカナヅチだったんです。水が怖くて小学校で学校のプールに入ったのは一回だけ。そんな私が障害を持っている仲間から「二五メートル泳げないかな。リレーのメンバーが足りないのよ」と言われたのは、アトランタの二年前。当然、「泳げません」と答えました。でも話を聞いたら、その障害者の水泳大会は仙台で開かれるという。仙台といったら、笹カマボコに「萩の月」、ラーメンじゃないですか。「それじゃあ私、行きます」と、水泳を始めることになりました(笑)。一カ月間の練習でどうにか泳げるようになって参加。リレーは優勝できなかったんですが、そこで個人二種目で私は大会新記録を出すことができて。「人間には残された可能性がある」と思いましたね。
ところが運悪く、その帰り道に居眠り運転の車に追突事故をもらってしまって、結果、二本の足に続いて二本の手が動かなくなってしまった。すごくショックで落ち込みました。でも私をリレーに誘ってくれた仲間たちが毎週末、福島の病院まで来てくれたんです。「また泳ごう。リレーを一緒に組もうよ」と。ちっぽけな私のために素晴らしい仲間がいてくれる。私は一人じゃない、またこのメンバーと一緒に泳ぎたいと思いました。
一〇カ月後、またプールに入りました。それからアトランタ・プレ大会参加の機会を得て生まれて初めて海外へ行き、出場三種目とも世界新記録を出すことができたんです。誰よりも一番最初に私が驚き、以降本番のパラリンピック日本代表選手を意識するようになりました。それまでは障害者のスポーツセンターで泳いでいたのですが、タイムを縮めるためにはこのままではいけない。そう思って近くのスイミングスクールに電話をしました。電話だと私が車イスということが分かりません。とてもいい対応に嬉しくなりましたが、最後に一言、明るく「すいません。私、車イスなんです」と言うと「うちはお断りしています。他をあたって下さい」と。五カ所電話して「車イス」と言ったとたん、ガチャンと電話を切られたこともあった。しかし六カ所目、いまのコーチとの出会いがありました。
アトランタに向けて一〇カ月間、二人三脚の練習で一番キツかったのは、足首をひもで結んだ先にバケツをつけて泳ぐ練習でした。最初、小さかったバケツが段々大きくなっていって。ある日、泳いでも泳いでも進まない。おかしいと思って振り返ってみると、なんと八五キロのコーチがバケツの上に乗っかっていました。それらの練習のおかげで、自分でも驚くようなタイムで泳ぎきることができた。シドニー前は、さらにハードなトレーニングでした。まず会社、日本テレビの仕事をして、その後泳ぎに行く。週に二回は三時間のウエートトレーニング。最初は二〇キロしか上がらなかったベンチプレスもシドニー前には五五キロ、その後六五キロまで上がるようになりました。私の性格を分かっているコーチは、タイムが悪いと「なにしに来たんだ。やる気がないのなら帰れ」。そう言われると「コンチクショウ、負けない!」となる。コーチの厳しい言葉によって立ち向かっていくことができたんじゃないかと思いますね。
◆波瀾万丈の三〇年だけれど
アトランタからの四年間にも、いろいろアクシデントがありました。一昨年、肩を痛め車イスをこぐことさえできなくなった。でもそこで、素晴らしいドクターにめぐり会えて。「手術をしたら六カ月かかるけど、手術をしないでウエートトレーニングで筋肉をつければ痛みがカバーできる」と言われ、その方法を取りました。その後、昨年2月に突然、子宮筋腫があることが分かり、取らなければ大変なことになると。自分としては「シドニーがあるから取って下さい」と、全く迷いはなし。親や姉は泣いたりしていましたけれど、私には目前に目標があったので泣いている場合じゃない。「先生、早く取っちゃって」。それも当初の予定日では間に合わないからと「手術を早めて」という勢いでした。
一三歳の時に病気と障害を抱えてから私の人生三〇年間、友だちの三〇年と比べるとはるかにいろいろなことがあったと思います。でも考え方を変えると、マイナスのものは何もない。得たものがたくさんあって、それがとっても重たい。失ったものを数えていくのではなく、得たものを数えていく人間になりたいと私は思っています。だから今回の手術の時も「よし。また試練が与えられたんだ。これを乗り越えたら、また自分はひと回り強くなれるんじゃないか」と、ワクワクした気持ちで手術に臨みました。
◆まだ残る「不思議なニッポン」
昨年のシドニーでは、決勝が終わると日本から電話が鳴り響き、「おめでとう! 記録も良かったね」と祝福されて。何で知っているのか不思議だったけれど、「新聞社から電話が来ているんだよ」と。アトランタの時には考えられないことでした。私たちのスポーツが本当に「競技スポーツ」として認められてきたな、日本も変わってきたなと実感しました。しかし一方で日本という国はまだ(障害者への)差別をつくっていることも感じています。ご存じのようにオリンピックの管轄は文部省で、パラリンピックは厚生省。いくら頑張ってスポーツをしていても、しょせんリハビリの延長という見方をされているんじゃないかと思ったりします。
街でもおかしなことが多々あります。例えば駅で。私は新宿で乗り換えますが、あんなに大きな駅でさえ階段しかありません。そこで駅員さんにお願いします。「すいません、乗り換えたいんですけれども、力を貸してもらえませんか」。一応、お願いする立場なのでつくり笑顔一〇〇%でお願いします。でも決まって「車イスね。ほかの職員を呼んでこなきゃいけないから、ちょっと待ってて」と、ぶっきらぼうに言われます。けれど三〇分たっても三五分たっても誰も来てくれない。ホームでは電車が通り過ぎていく。思い切って通行人の方に声をかけました。「すいません。ホームまで行きたいんですが、力を貸してもらえませんか」。私が声をかけた人がさらに他の人に声をかけ、あっという間に四人の男の人が集まってくれ車イスの四隅を持ち上げてくれたんです。「どうもありがとうございました! 本当に助かりました」と言っていたら、職員が顔色を変えてやってきた。「何かあった時の責任を誰が取るんだ。困るんだよ、勝手にそんなことをされちゃ。なんで一人で来たんですか。なんで前もって電話してくれないんですか。なんでこんなに忙しい時間に来たんだ」と言われてしまう。
私はそこで二倍にして言い返すようにしています。「人間誰でも障害者になるんじゃないですか。それが早いか遅いかの問題です。誰でも年を取れば、いままで登れていた階段に時間がかかったり、ヒザが痛くて降りれなかったり。あなただって将来、車イスに乗る日が来ると思うんですけど」。そういう人に限って「俺はいままで病気一つしたことがないんだ」と、胸を張って言うんですけど(笑)。
◆車イスはメガネと変わりません!
車イスに乗っている私は、特別な人でも可哀想な人でもありません。日常生活の中でほとんど不自由を感じていませんし、できないことは助けてもらってやっていけると思っています。私には三人の甥っ子、姪っ子たちがいます。その子たちが生まれてきた時、もう私は車イスの姿でした。だから彼らには車イスは何でもない。私が「足が悪い=かわいそうな人」なんて、これっぽっちも思っていません。買い物へ行って高い所に手が届かない時、私のヒザを踏み台にして取ってくれる。私以外の車イスの人に坂道で会った時も、話しかけ、手伝いに行く。特別にボランティアをしたとかいう感じではありません。いま、「ボランティア」という言葉が美談化していますが、彼たちの中では「してあげた」ではないんです。「できないことを手伝った」という気持ちだと思います。
一方で私はいきなり、車イスを後ろから押されて、バランスを崩して転んだことがあります。その押した女の人に、「私はホームヘルパーの資格を持っているのよ」と言われました。その人の資格なんて私には関係のないことで、いきなり手を出すという危険なことはやめて欲しい。私に何が必要か聞いてくれた方がよほど嬉しいですね。
アトランタ以降、たくさんの講演の機会をいただきました。私が中学生の時に発病したからか中学校や小学校に呼ばれることが多く、いままで五万五千人くらいの子供たちにメッセージを送ってきました。ちょっと偉そうに、「人間は目標に向かって頑張れる力がある。諦めることは簡単だけど、みんなの目標や夢はそんなに簡単に諦めるものではないと思う。絶対に目標に向かって全力投球してもらいたい。それから結果だけを評価するのではなくて、そこに到達するまでの過程が一番大切なんだよ」と言ってきました。
「私なんか生きていても仕方がない」と自殺をしてしまう子供もいるけれど、絶対その子は必要なんですよね。私も一時、死にたい、生きていても仕方がないと考えたことがありましたが、「でも私は私、車イスに乗っても成田真由美には変わりない」と当たり前の原点を確認できた時、「私にとって車イスはメガネと全く変わりがない」という考え方になれました。子供たちには「やればできるし、みんなは必要とされて産まれてきた。苦手な部分があるかもしれないけれども、それよりも得意なものの方が数多くある」ということを伝えて欲しいと思います。
シドニーの前も目標に向かって泳いでいる自分、輝いている自分が好きでした。でもシドニーはもう終わったことです。もう一人の成田真由美がいて、その人が泳ぐのが好きで結果がすごく良かったというだけ。私はもう次の目標や夢に向かって頑張っています。三〇歳の女性としては、結婚して子供を産みたい。間に合えば、ママさんスイマーとしてアテネを目指したい。気持ちは本当に強く持つようにしています。ダメだと思ったら結局それなりの結果しか出ないだろうし、「やるぞ」という気持ちが大事だと思います。
◇成田真由美さんのプロフィル
1970年、川崎市生まれ。スポーツ万能でいつも走り回っていたが、中学1年生の時、脊髄炎で下半身マヒとなり、7年間の病床生活を送る。94年から水泳を始め、わずか1カ月後、東北身体障害者選手権で優勝。その帰路、交通事故にあい、右手指の一部に障害を負う。96年、アトランタ・パラリンピックでも世界新による2つの「金」を含む5つのメダルを獲得。シドニーの活躍は記憶に新しい。日本テレビ編成局考査部に勤務の傍ら、講演活動でも全国を飛び回っている。