忘れられぬ味(1) アサヒビール名誉会長・村井勉 お袋の糠漬の鰯
「忘れられぬ味」といえば、戦前の学生時代の列車の旅が頭に浮かぶ。出身地の北九州小倉と東京との間を、休暇の都度、何度も列車で往復した、あの青年時代のことである。
上京の際は、門司港で青いバナナを買い求め、関門連絡船に乗るのが常だった。下関に渡り、東京行きの列車に乗るべく重いバナナを抱えて列車ホームまでの数百mをよく走ったものである。乗車後、網棚にこれをのせておくと、東京駅に到着する頃には、ほどよく黄色に熟れており、それが学友へのお土産として大変喜ばれた。その一方で、私はといえば当時のことだから、顔中煤だらけとなる始末であった。また、途中の停車時間も余裕があり、おいしい駅弁を買い求めるため下車したり、あるいは車窓を開けて買ったりすることが旅の楽しみのひとつでもあった。記憶によれば、三田尻の駅弁が大変評判がよかった。
しかし、何といっても「忘れられぬ味」と聞かれれば、真っ先に思い出すのは「お袋の味」である。どこの家庭でも糠床を大切にしていた時代で、これを腐らせると嫁は離縁されると言われるほどだったと記憶している。冬の真っ最中に、糠味噌をかき回していたお袋の手が、真っ赤になっていたことを今でも思い出す。そしてこの糠味噌漬を食べる時、糠味噌に含まれている芥子昆布も一緒に口の中に入るから、格別の味わいであった。
学生時代、上京する際にはお袋が「ちょっと待って」と言って、この糠味噌漬の鰯を弁当箱に詰めたものを持たされたものだった。また、時にはわざわざ東京の下宿にまで郵送されてきて、故郷の味を堪能したことも忘れ得ない。最近帰郷の際、昔ながらの旦過市場を見てまわったが、それらしきものは見受けられたものの、お袋の味を汚してはいけないと思い、買い求める気持ちにはなれなかった。
そして忘れもしないのは、中支で終戦となり、捕虜生活を一年した後、昭和21年6月に復員した時のことである。玄関で「ただいま」と大声をあげたところ、お袋が飛び出してきて私の顔をみるや否や、すぐ家の中に入ってしまった。私はおかしいなと思いながら立っていたら、しばらくしてお袋がおそるおそる顔を出して「本当に勉ちゃんか。はじめは幽霊かと思ったよ。よく帰ってきた、早くお上がり」と言われ、「お食べ」と早速出されたのが、この鰯であった。
なお、玄界灘の河豚といえば垂涎おくあたわざる味ではあるが、高価にして平常は手の届かないものであり、お袋から「今夜は河豚よ」と言われると一日中ウキウキした心境で、日の暮れを待ち望んだものであった。
(アサヒビール(株)相談役名誉会長)
日本食糧新聞の第8246号(1997年8月13日付)の紙面
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