忘れられぬ味(26) サッポロビール社長・枝元賢造 まぼろしの馬刺
一〇年あまり前のことである。年一回のサッポロ合同ビール会が札幌パークホテルで開かれた時だから、頃は7月であった。
会が終わったあと、私はスタッフ数人と一緒に打ち上げをかねてホテル地下一階のクラブに寄った。
そこで出合ったのが忘れ難いあの馬刺の味である。馬刺とはこんなにうまいものか、と思った。ハッとする味覚とは、きっとそれをいうのであろう。一片を含むとたちまち柔らかな甘さが口いっぱいに広がった。ほのかな香気さえ感じる。皿の上の肉は、さくら色の中に細やかなサシがビッシリと鹿の子状に入っていて、いかにも次の箸を誘う。思わず何度かのお代わりをしてしまった。
すっかりとりこになった私は、翌々日、またクラブに出かけた。まずは馬刺を、注文したものである。
ところが、どこか違う。たしかに肉はさくら色だし霜降りではあるが、口の中の感触が明らかにこの前とは違った。あのとろけるようなふくよかな感じがないのである。
不思議な気がして、そのことを支配人にいうと返事はつれなかった。「ああ、この間の肉ですね。あれは特別中の特別でした。ヒレ下のロインでしてね。あれほどのサシの肉はめったに手に入りません」。よく聞くと馬の場合、松阪牛のようにつくられるものではないから、あのような肉が出るのはよほどの偶然であるらしい。
偶然であろうとどうであろうと、ともかくあの味をもう一度と、以後私の幻の馬刺追っかけが始まった。もしかしたら出合えるかもしれない、と夢想しながら機会あるごとに馬刺を注文してみるのである。
しかし、まだ出合えない。どうやら幻の馬刺は幻のまま終わりそうである。
(サッポロビール(株)社長)
日本食糧新聞の第8306号(1997年12月19日付)の紙面
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