忘れられぬ味(28) サンヨー食品・社長 井田 毅 「忘れぬ不味さ」
最近のグルメブームはとどまるところを知らず、TVでは国内はもちろん、香港、上海、パリなど、それぞれの一流、あるいは五つ星レストランなど、著名な店、一流の腕前のコック長の紹介に時間を費やしております。またわれわれも可処分所得の増加とともに生活水準も大いに向上し、味覚の世界に遊ぶゆとりも生じ、すでに五年、一〇年と経ちました。美味しいものもたまに食してこそ美味しいと感じるもので、常に芳香、醸味に接していると、経済学の限界効用低減の法則通り、あまり感激が無くなるようです。
私の忘れられぬ味は、不味い方の話です。
時は敗戦後の昭和22年、世は食糧難で日本中が四苦八苦しておった頃です。
主食は配給制で、それも、コメ六割、麦二割、小麦粉二割くらいの割合だったと記憶しております。
それも一人一日、二合一杓と言う割当量で、そのうえ配給量が政府で確保できず、七日、一〇日と遅配、欠配続きでした。ですから食べられるものならサツマイモからカボチャ、イモのつるまで主食の代わりに食べたものでした。
この頃、主食の代替として、アメリカからララの救援物資として送られた脱脂大豆の粉が配給になりました。これは不味かったですね。煮ても焼いても食えぬ、とはこのようなものを指すのかと、今でも考えてしまいます。
食糧難の時ですから、口に入るものなら何でも有り難かったものですが、さすが、それだけは頂けなかった、苦い経験があります。
あとで聞かされた話では、アメリカでは家畜の飼料だったとのことです。なるほどアメリカの牛はこのような不味いもので育てられるから、肉の味が連れて不味い大味になるのかなと、連鎖反応の恐ろしさをも思い、アメリカ牛のステーキを食べる際に、敗戦直後の脱脂大豆の粉の不味さを思い出します。
(サンヨー食品(株)社長)
日本食糧新聞の第8312号(1998年1月7日付)の紙面
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