忘れられぬ味(32) 白子・社長 藤澤 憲 江戸前のワタリガニ
網から外したばかりのワタリガニを、水を一杯張った釜に入れて塩ゆでする。きれいな朱色にゆであがったカニを、ざるに入れて少し冷ましておく。重い、大ぶりの雌ガニは身がびっしりとつまり、みそも十分入っていて最高である。甲羅をはがし、内側を一気にすすると、塩味のきいた汁とみそが混じりあってなんともいえないうまさである。脚は折って別にし、胴体を二つに折る。ハサミ脚のつけ根の部分の身をもぎとると、真っ白な肉がピンと張って出てくる。醤油をつけてほおばると、肉の淡い甘味が一層ひきたって、美味このうえない。正に絶品である。
炊きたてのご飯と一緒に食べるのもまたいい。ご飯とカニの甘味が渾然一体となり、食のすすむことこのうえない。学生時代、夏休みにわが家に誘った友人が、舌つづみをうって食べていた姿が忘れられない。
少年期から学生時代にかけて、故郷の海はいつも生きた魚介類をたっぷりと食べさせてくれた。底の深い岩がき、脂ののった釣りたての鰹の刺身、鰺のたたきなど、数えあげればきりがない。それらの旬の味は、四季折々、朝な夕なの海の景色、潮騒とともに忘れえない思い出である。
戦後、発展の側面で失われた自然環境の回復は急務とされている。願わくば、故郷の海にも、再びワタリガニの現れんことを。
一〇年ほど前の秋、デュッセルドルフにアヌーガの食品展を訪ねた折、足を伸ばしてライン川沿いをドライブした。ローレライにはあまり詩情を感じなかったが、ラインガウで飲んだ生ワインの味は今も忘れられない。大通りから少し入ったとあるレストランであったが、樽の栓からごぼごぼと大きなグラスに注ぎこまれるときの泡だったさまは、正に「生」という感じであった。ぐいっと一口飲むと、やや甘口の芳醇な生ワインが口一杯に広がり、えもいわれぬうまさ。思わず二杯目を注文した。伊丹の蔵元で飲んだ日本酒の生もうまかったが、この時の生ワインの味は格別であった。感激した思い出を語りあえる相手がいないのが残念である。
工夫を凝らした料理より、素材そのものの味の思い出が多いのは、育った環境のせいであろうか。((株)白子社長)
日本食糧新聞の第8324号(1998年2月2日付)の紙面
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