忘れられぬ味(38)味の素相談役名誉会長 鈴木三郎助 「おふくろの味」に還る

総合 統計・分析 1998.03.06 8338号 2面

漬茄子や 紺の深さに 母偲ぶ (楠本 純子)

人はだれでもおふくろの味に還っていく、とはよく出される謂いである。

人は各々それぞれに「おふくろの味」から出立し、世間を歩き、山海珍味を賞味しながら、やがてふと、このノスタルジーに気づくことになる。私もそうであった。

意識するでもなく「おふくろの味」の下で育まれ、父親のテリトリーの味を少しずつ齧りだし、学生時代からはずいぶんと乱暴な食に突入していったものである。一本立ちし、やがて、仕事の関係で国内はもとより世界各地の都市を廻るようになると、必ずその都市一流のレストランで食し、同時に肩の凝らない店にはいることを自らに課した。当初は商売上の理由で始めたのだが、その土地の人々が何をどう食しているのかを知りたいと念じたこの探究癖も、今となっては、習性としてすっかり身についた。それは、いい音を聴く、いい絵に出会うという私の密かな愉悦に匹敵する根源的なものと化した。

こうして食という長い道のりを歩いてみると、ふとあの「おふくろの味」というノスタルジーに気づくのである。

「おふくろの味」の原風景は、やはり、おふくろのうしろ姿である。

台所でコトコトと包丁を使っていた母親、機会をとらえては板前さんやシェフたちに料理のコツを習い、味の出し方、仕込みの具合などを丹念にメモしていた母親、家族全員がそろう夜食には、一箸遅れながら家人たちの食の進みに気を配っていた母親、そこにあったのは、医食同源なる言葉を知ってか知らずか、絶えず栄養バランスに気を配っていた母親の姿である。しかし一方、だれもいない昼食には、商家独得のつましい食を、お手伝い頭の老婦人を相手に食していたにちがいない‐‐、こうした情景が年を経るにつれて鮮明に浮かんでくるのである。

私が若いときから今日まで、和食が大好きなのは、母親の料理の中心が和食であったせいであろう。母の得意なお惣菜料理は、数え上げればきりがない。

板のように乾いた鯨の脂身を水菜とともにだし汁で炊く「コロ鍋」、まぐろのブツ切りと一寸ぐらいに切ったネギを、すき焼き風の味付けで土鍋で煮る「ねぎま」、うす口醤油、だし、生姜汁と酒で調合しただし汁を土鍋にたっぷり入れ、鴨と京菜とともに煮る「鴨鍋」、昭和の初期のことだったが、今ふうの「しゃぶしゃぶ」のように、薄切り肉をだし汁で煮て、大根おろしかごまだれで食したのは、中国料理の芳香炉をまねて母が考えついたものにちがいない。

このほか、揚げ出し豆腐、きんぴらごぼう、鯖の味噌煮、鶏の立田揚げ、だし汁をたっぷり含んだ関西風の玉子の「だし巻き」、山椒の実を一緒に煮る「昆布の佃煮」、ふろふき大根、湯葉と里芋の炊き合わせ、鶏のもつの甘辛煮等々、そのメニューはバラエティーに富んでいた。特筆のものは、その日によって白味噌、八丁味噌、信州味噌、仙台味噌などの混ぜ合わせの比率を変え、料理との釣り合いを考えた味噌汁であった。味噌の惣菜といえば、里芋と細かく刻んだ大根と豚のロースを入れた「薩摩汁」も忘れがたい。食べ盛りの私にとって、夕食を待ちかね、台所を覗きに行っては叱られたことも度々だった。

母が蓄えていた無数のノウハウは、かなりの価値のものだったにちがいない。しかし、メモらしきものが何も残されていないことが悔やまれる。そして、今になって思うと、これらの中心をなすものが、「煮物」だったことに改めて気づく。

といって、西洋料理が皆無だったわけではない。週に一度ぐらいは、シチュウ、ロールキャベツ、ハンバーグ、カレー、ハヤシ、グラタン等々が食卓を飾った。これらはいずれも、シェフからきっちりと教わったものらしく、あっさりと仕上げられてはいたが、スタイル、味ともに一歩も崩すことなく、家庭料理というよりは正統なレストランのそれであった。昔気質の母にとって、洋食はやはり洋食であったのだ。西洋風のものを和食にアレンジして日本的西洋料理にくずすなどは、母の気質が許さなかったのだろう。

近頃の家庭料理の代表的メニューが「カアチャン、ヤスメ」と聞いて少々驚く。曰く、カレー、チャーハン、ハンバーグ、ヤキソバ、スパゲッティ、メダマヤキだというのである。これらの中には煮物はなく、いわんや伝統的日本料理などはひとつも入っていない。

家庭料理とは、夫のため、子供のためにコトコトと包丁を使う。そこには想いがあり、愛情らしきものがあり、「男子厨房に入るを禁ず」をかなぐり捨ててすでに久しいが、その肩がわりした部分が、なにやら大事なものを欠落させたという気がしないでもない。女性たちの社会的進出を大前提とするとしても、女性たちが厨房に入り、「おふくろの味」を再現してもらえまいか、あの場を再び豊穣なものとしてもらえまいか、などと勝手なことを願うのである。

(味の素(株)相談役名誉会長)

日本食糧新聞の第8338号(1998年3月6日付)の紙面

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