忘れられぬ味(53) フジパン・会長 舟橋正輝 あの味が人生を変えた

日頃の食生活は栄養分を摂るための重要な生活行動ですが、それに味覚という嗜好が加わると、その人にとっては、意義深い人生そのものになると言えましょう。

五三年前、あの苦衷の歴史を刻んだ終戦の年の暮れのことは、忘れられない味覚とともに私の人生の大きな分岐点となりました。

戦災で焼け野原になった中で、やっと肩寄せ合って暮らす家族のもとへ帰ってからは、戦前の家業であった製パン業の再興に明け暮れる日々となりました。平和な時が戻ってきても、戦災で受けた被害の重さは、住民にとって明日への希望を見出せない厳しいものでした。一刻も早くパンを作って提供したいという焦燥に駆られながら、焼け跡で麦畑を耕したり、製パン資材の購入に東奔西走の時を過ごしていました。そうしたある日、すでに仕事を始めていた同業者から、パン生地用のミキサーを譲ってもいいという話を聞いて、早速お願いに上がりました。

代金はもちろん現金払いと思っていたのに、お金より物々交換がいいと言われて交渉成立。畳六枚をリヤカーに積んで出かけました。今では考えられない、終戦直後の経済の不安定さを顕著に感じさせる体験でした。さて、ミキサーは五袋用ですが、当時の機械ですから誠に簡単で軽量です。ご主人が「ちょっと待っていて下さい。すぐ洗いますから」と親切に言われるのをお断りして車に積みました。軽いと言っても、二キロメートルの道程を運ぶのは、非力な私にとっては、決して楽な作業ではなかったのです。休み休みの運搬でしたから、時間もかかって夜遅くなり、裸電球が薄暗く照らすわが家に運び入れた時には、大きな疲労に打ちのめされて、その場に座り込み、「やっと終わった」という安堵感を抱いたのを覚えています。

しかし明日の作業の手はずを考えれば休むこともできず、早速ミキサーを洗わなければならなかったのです。そこで機械に付着していたパンの残り生地をはがして、何気なく丸めていたのを母が見留めたのでしょう。即席でパン生地の団子と少量の野菜で塩味の水団(すいとん)を作ってくれました。疲労と空腹に気も重くなっていて、しかも凍てつくような寒さの師走の夜でしたから、温かな湯気を顔一杯に受けながら、水団を口にした時の味に、言葉では言い得ないようなほのかな幸福感が溢れてきて、あの時の味覚は終生忘れられないものとなりました。

翌日、小さいながらもミキサーを備えた作業場で、自分が初めて焼いたコッペパンを手にした時の感激に思わず涙が流れました。そして柔らかな触感と香ばしい風味、口中に広がる食感は、今もはっきりと思い出すことができる最高の味覚として深く心に刻まれています。「よーし!たくさんの人に、自分の手で美味しいパンを届けよう」。あの時の感動が、私の人生を決定づけた一瞬であり、パン職人としての決意と栄光の出発点になったことは言うまでもありません。

今は食材も多く味覚も多様になって人々の嗜好は十二分に充たされるほどになりましたが、それらの味覚には、その人なりの思い出と命の感動があるのです。

初めて焼いた時のパンの味のように、味覚とは人生を飾る宝石の輝きであると思われてなりません。

(フジパン(株)代表取締役会長)

日本食糧新聞の第8377号(1998年6月1日付)の紙面

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