忘れられぬ味(9)アヲハタ・清水優社長「あの日のチャーシュー麺」

本四国間三番目の架橋ルート「しまなみ街道」の開通で、このところ話題にのぼる機会が増えた瀬戸内でありますが、ご承知のとおり魚の大変美味しいところです。かつて帝人で栄えた三原の街に古くからある鮨やに品書きにはないが、特に所望すれば出してくれる逸品がある。

年季の入った穴子の肝の塩辛で熟成した旨味はえもいわれぬ味わい、これで地酒をやるとたまらない。ここを二度訪れる機会のない人にとっては、恐らく忘れられぬ味の一つになるのではなかろうか。

幸か不幸か私は食べたくなったら行って「あれを」と頼めばありつけるので忘れられぬ味にはなり難い。仕事柄から食べることには目がなく全国各地、時には海外で美味しいものを沢山いただいてきたが、あらためて「忘れられぬ味」となるとこれぞという決定版が思い浮かばない。

むしろ戦中戦後の食うや食わずの時代の中にいろいろと忘れられぬ思い出がある。小学校は東京・目白であったが長野に集団疎開をした。食糧事情は日に日に悪くなり皆で野草を摘んできては食べ、遂には赤蛙の澄し汁まで出た。三年生の夏、終戦を迎えたが、すぐには東京に戻してもらえなかった。

そのうちに栄養失調となり親が呼ばれ特別に家に連れ戻された。当時誰もが痩せ細っていたが、皆が振り向くほどにひどい症状であった。昭和21年の正月、親父が函館に転勤となり一家で移り住んだが、東京の大人たちが真剣に北海道に行ったらニシンが食える、カボチャがうまいなどとうらやましがっていたのが、妙に印象に残っている。

正にコメの代わりにカボチャ、澱粉用バレイショやニシン、イカが配給になり、手が黄色くなるほどカボチャを食べた。たまに手に入ったコメを母が大根の葉などで増量して、イカに詰めて子供達だけに食べさせてくれた。あの感激を今、駅弁大会などで北海道名物イカご飯を見ると目頭が熱くなって思い出す。

24年の春、小学校卒業と同時に再び東京に戻った。時代は少しずつよくなっていた、親父に連れられて有楽町の何処かでチャーシュー麺を食べた。もうそのうまかったこと、チャーシューが何とも豪華であったこと、今でも忘れられない。そのチャーシュー麺を食べた後、日劇だっただろうか、徳川夢声の話(西遊記?)を聞きに連れていかれた想い出と重なって走馬灯のように思い浮かぶ。

当時の材料からして今日のほうがずっと上等であるはずだが、私にとってはあの日のチャーシュー麺が未だに一番で、これを越えるものに出会っていない。栄養失調であった私は目下八二キログラムで減量指示を受ける始末、豊富でうまいものずくめでありながら、食べることに往年の感動が沸かないなど何とも罰が当たりそうな今日この頃である。(アヲハタ(株)社長)

日本食糧新聞の第8640号(2000年1月26日付)の紙面

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