シェフと60分:中国料理「北京遊膳」オーナーシェフ・斎藤永徳氏
「店を舞台に出したい料理を出す。そのために店を出したのです」
毎朝7時30分に出勤、お茶を作り、コースの始めから終わりまですべて一人で携わり「自分の料理として出すのです」。
石の上にも三年、やっと客の手応えが出てきた。今が一番大事な時、ここで若い者を入れバランスが崩れることを恐れる。
かつて人を入れたことがある。一人で作れば自然の流れでいくところ、野菜の切り方ひとつで色彩が変わり、味のポイントも変わる。また、空気の流れも変わるといい、「これが料理なんだと実感した」経験がある。
生身の人間、体調を崩すこともある。「時に、ふっと三〇万円をだしてもいいから人を入れたい」という思いが頭をよぎるが、「自分で勝ち取った宝石、自分で磨いて、いろいろな輝きを出してみよう」と気を取り直す。
日本での中国料理の許容範囲は狭い。まだ酢豚、麻婆豆腐、春巻きの世界を脱していない。「これをうち破るには、中堅である四〇代の料理人がどんどん料理を出していかなくてはいけません」。
ただ一人で舞台を仕切る自らに快感を覚える料理人、まさにオーナーシェフ冥利に尽きるようだ。
「何もかも中国のものを使わなくてもおいしいものはできる」が持論。
実際、中国の小麦粉は精製されていないし、酢は臭い、塩は岩塩で塩気が強すぎ、そのまま使ったのでは日本人の舌に合わない。
日本には気候風土に合った良い食材が豊富にある。また、日本古来から育んできた味噌、醤油の味が民族の味として体にしみこんでおり、いまだにご飯、味噌汁、海苔、香の物という食のバランスは棄てきれていない。
中国料理は一品でボリュームがあり、しかも味が濃縮されている。毎日食べるには重すぎる。
そこで「毎日食べさせるように工夫するのが料理人の腕だ」というわけだ。
自身は、オープン以来の日替わりランチを続投させるため、日本人に合った食材を選び出し、メニュー化に奮闘する。
例えば、野菜は旬に食べてこそ一番おいしい。そのため、白菜は夏のメニューに取り上げず、冬だけの限定食材にしている。
中国人により伝えられた中国料理は今、日本人が作る中国料理となり、表現法もどんどんバラエティー化している。「ここ北京遊膳の北京料理は私が作るのです」といい切る。
ただいつの場合も、香菜、ニンニク、コショウ、豆板醤など中国の基本の味、香りを忘れてはならず、「キチンと学んだ人が教えていかなくてはいけません」と釘を刺す。
北京料理が他の料理と異なるのは、淡泊な味付けと長ネギ、ショウガ、ニンニクなど香味野菜をふんだんに使っていることだ。
また、中国料理の共通する特色とされる食材の油通しも肉類や魚介類だけで、野菜類は湯通しして調理するのが一般的という。
北方の北京では南方産の菜種油は高級品、ほとんどを豚の背脂からとったラードでまかなっていたが、そのラードでさえ「決してふんだんに使える状況ではなかった」。
野菜は湯通しして炒めれば使う量も少なく、空気に触れ冷めても油が残らない。肉を炒めるのもさっと炒める程度に使い、北京料理の特徴とする淡白、サッパリ仕上げとなったのには、案外こうした背景があったのかもしれない。
コースの流れも独特だ。一般的には食欲をそそる意味でスープに始まるが、店ではデザートの前にくる。ほとんど最後に近い。また、魚・肉の炒めものも最後のほうに出て饅頭と食べるなど、同じ北京料理でも地方により千差万別。あまり形にこだわらないのが中国風のようだ。
素材選びには最大限の時間を使い吟味する。
「仕入れたものが商品。私は、ただこれに手を加え加工し、化粧をして仕上げるだけです」
まず一番のこだわりにコメと水をあげる。自ら食べてまずいものは、客もまずいはずと厳選のコメを使い、水は浄水にする。
北京料理に欠かせないのが卵。色合い、白身と黄身のバランスなどをチェックし「極端にいえば五〇〇〇円の卵を持ってきてくれ」と注文するほどのこだわりを持つ。
シンプルを身上とする北京料理は、味付けも塩味か醤油味など素材の味を大切にしたものが多い。
そのため、塩は冷めても味が変わらないミネラル豊富な高知の塩を使い、そのほかスープには、「モミジの香りと味が体にしみつくほど」かたくなに鶏の足一〇〇%のモミジを使う。
「ゼラチン質が違う鶏ガラ」は、毎日七㎏を仕入れる。時に品切れになったり、品質も昔は大ビナで揃っていたものが、小ビナ、中ビナ混じりになることもあり仕入れも容易ではない。
パックされた便利なものも出回り代替も可能だが、「キチンとした素材を使い、私の納得した味を出していきたい」と語る表情に妥協を許さない厳しいものを見た。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
昭和28年、東京都台東区生まれ。高校では食品化学を専攻するが、中学時代からのアルバイトが飲食店であったため、そのまま料理の道を歩む決心をする。卒業とともに不二家に入社、フランス料理を希望するが空席なく、中国料理配属となる。
以後、研鑽を重ねるにつれ中国料理の魅力にとりつかれ、ついにフランス料理に戻ることはなかった。
昭和54年から約一〇年、山の上ホテル「新北京」で北京料理を修得し、長年の念願であった独立を果たす。現在、店主であり料理人でもある一人二役をこなしながら、一日たりとも休まず自らが納得する北京料理を披露する日々である。