人物往来 全日本司厨士協会・藤咲信次会長(3)

1992.04.20 2号 4面

《 == == 食材豊富な名古屋時代》 当時は、日本も経済的に大変苦しい時代で、松竹映画の「大学は出たけれど…」などという就職難の時代で、新聞で一人募集すると一〇〇人くらい応募してきた。働く者のユニフォームも、その洗濯代も会社で負担してくれないといった、働く者にとってはその条件は大変に弱かった。

その頃、私は銀座のケテルから、現在はなくなったが、銀座の並木通りにあったアラスカという店に勤めた。この店は、現在の毎日会館のところにあり、かなり高級店であった。社長は、元横浜のニューグランド系の人で、朝日新聞社の社主に大変気に入られ、朝日会館のレストランを任されており、大阪の朝日会館にも出店していた。

私は、銀座並木通りのアラスカの料理長の石井さんのもとで修業した。それから名古屋のアラスカ店にセカンドとして赴任した。私の前任者が数年前に亡くなられた副会長の広瀬信太郎さんだった。

名古屋というところは、今日もそうだと思うが、その当時、肉は近江、松阪の両産地を控え、良質の肉が多かった。海産物も伊勢、志摩を控えており、伊勢エビにしても、すべて生きているもので値段も大変安かった。

アラスカに勤務していた頃、銀座六丁目、現在の太陽神戸三井の近くにフロリダグリルという近代的な店があり、ここに招かれて、料理長となって再び東京に赴任した。一階がチョコレートやケーキ類を売っている店で、ニューグランドにいたベカーさんが担当し、私は地下のグリルの料理長となった。

《 == == 第二次世界大戦始まる》 その頃から、日本は次第に第二次世界大戦に近づきつつあった。従って食材の方も窮屈になってきた。

やがて日米開戦を迎えた。私は金谷ホテル時代からアメリカ人に接してきており、アメリカ人自体には親近感をもっていた。直接アメリカから攻撃を受けたわけではないので、敵愾心は出てこなかった。しかし、真珠湾が攻撃されたという発表を聞いた時は、大変驚いた。

やがて統制経済に入った。そうこうしているうちに空襲も行われるようになった。しだいに空襲が激しくなった。有楽町から銀座を中心に大型の爆弾が落ち、当時、現在総本部事務局に勤務している飯塚君が、女学校へ通学途中爆撃にあい大ケガをしたと聞いている。

銀座に落ちた爆弾は尾張町の交差点近くで、完全に地下鉄の線路のもっと下まで貫通し爆発した。私が働いていた場所は六丁目で、二丁目ほど離れていたが、マグニチュード8ぐらいあった。 (つづく)

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