タイに見る明日の食 日本食が与えた大きなインパクト

1995.03.20 72号 18面

年初の賑わうバンコクを訪れ、食の各分野を周辺の生産や消費から触れてきた。いま近隣のインドシナ半島やマレー半島へ、驚異的な影響力をもつ大国タイ。そのメガロポリス・バンコクには、特異な「食のスタイル」が見られ、そのアジア的な共通性と独自性に、二一世紀型「食パターン」の予感がある。年々歳々、変化するバンコクは都市化が進み、新しい「生産と消費の条件」を生んでいる。まず稲作の劇的な変化である。なにしろ米価が一〇年も上がらないから、都市と農村の所得格差は開く一方である。

現代化は経費がかさみ「コメを作ると借金とワラしか残らない」と嘆いている。さらに世界的なコメのダブツキから今年も一万六〇〇〇ヘクタールが減反される。国は牧草地や果樹への転作を奨励し、マンゴーやグワバの苗木を支給している。果樹の収入は稲作の五倍だが、コメの生産地に若者の姿は見えない。農地を売って学資にして大学へ行くか、それが出来なければ出稼ぎに行く。いずれにせよ農業後継者は急速に減少している。

都市の所得向上は、バンコクを巨大な消費都市とした。日本から進出した百貨店を核とする、ショッピング・センターも多い。ここには世界の食品や、高級雑貨、ブランド物のファッションが並んでいる。だが住宅問題は深刻である。バンコクから近郊へ車を走らせると、宅地造成の劇的な光景が見られる。タイの農地は半分以上が水田だったが、いま水田は商品となった。宅地販売中の看板や新築住宅や、建設中のショッピング・ビルが、ロードサイドを埋めている。

さてタイの食には、アジア諸国と「共通と異質」の二面がある。その独自性は「食材と民族」にある。大きな国土の各地には、異なった風土の食材がある。海に面する地域では、ミャンマー国境沿いの西部、カンボジア国境沿いの東部。内陸部では、ミャンマー国境とラオス国境沿いの北部、ラオス沿いの東北部の二地域。他と国境を接していない地域には、中部、マレー半島の南部がある。

これらの地域の食材が、多民族構成の食文化となる。シャム系、ラオ系、中国系、マレー系など、それぞれ民族的な食傾向がうかがえるのは、アジア諸国に共通する「食の混交」である。

バンコクは六〇〇万人の巨大な胃袋である。その高級志向(実は異文化の食体系であり価値観)に対応するのが、外資系のホテル、レストラン、百貨店である。販売力に優る日系百貨店は、みなSC(ショッピング・センター)の核店舗で、食品売場から中食、外食まで展開している。「タイ伊勢丹」とワールド・トレード・センター(写真1)、「エラワンそごう」とハイアット・ホテル、「タイそごう」とアマリン・プラザ(いずれも写真2)、「タイ東急」とマーブンクロンSC、これらがSCの一角を占めている。

地元の「セントラル百貨店」(写真3)や、「ロビンソン百貨店」(写真4)でも高級スーパーを設け、輸入食品やワインの品揃えをしている。このほか、繁華街のSCサイアム・センター、SCペニンシュラ・プラザ、SCシーロム・ヴィレッジ、チャオプラヤ河畔のホテル街の、SCオリエンタル・プレイスや、SCリバー・シティ(写真5)など、欧米の一流ブランド店のテナントと、多様なフード・サービス業態で構成している。

一九六四年に一号店を出店した「タイ大丸」は、昨年3月この都心店を止めて、郊外のシーナカリンに移り、SCセリ・センターの核店舗になった。今年はフランスの「プランタン」百貨店が核店舗に加わる。セリ・センターに隣接する、SCシーコン・スクエアは「ロビンソン百貨店」と、米国の「ウオルーマート百貨店」が核店舗である。このように郊外住宅地の安定的な供給は、郊外生活に必要な車の購入意欲に反映し、前年の大きな販売実績(四六万台、前年比二六%増)に続いて二桁の伸びにある。

八五年から九〇年まで所得成長率は一〇%台、百貨店売上高は一〇~一五%の伸びであった。バンコクの平均所得は、五〇〇〇ドルで地方(二〇〇〇ドル)の倍である。好調な個人消費を背景に、百貨店は急ピッチで増床してきた。八九年に五一万平方メートルだった売場面積は、いま二倍半にちかい一二〇万平方メートルである。その結果、いまや高級客獲得は過当競争になった。それでは次の視点は何であろうか。もし日本の例を参考にするなら、課題は大きな市場である、庶民の胃袋への「ホンモノ志向」の普及であり、真の「食の充実」に向けられるだろう。

だが日常の食材の調達はどうなっているか。タラート(市場)や名物の水上市場にも、肉(写真6)、魚(写真7)、野菜(写真8)がある。だが夜明けに開店する市場は、売り切れるのも早く、都市の共働きの中間層には不便である。そこで、GS併設のミニ・スーパーや、コンビニエンス・ストア、ホールセール・クラブのニーズが高まっている。

外食では「米国系」のハンバーガー、ピザ、フライドチキンと、「中国系」の飲茶、北京ダック、ふかひれ専門店が多く、エスニック・フードでは、大衆路線の韓国系、アラブ系、インド系の店。高級路線の日系、フランス系、イタリア系、英国系がある。

さて高級路線をつっ走る、百貨店の食品市場には、欧米のパルマハムのような高級食品や、ワイン、スピリッツ、グロサリー、国内の高級果実が揃っている。いずれの日系百貨店でも、内食・中食・外食を通じて「ジャパニーズ・カラー」が売り物だが、日本食の風味をいくつか試すと、素材は現地調達の味で、オペレーションも異なっている。もっとも外資系のホテルの、欧州名のレストランであっても、その完成度は店ごとに異なる。シェフやマネージャーに、ネーティブを配していない店は、どうしてもタイ・スタイルの、フランス料理やイタリア料理になっている。

このタイ風の「エスニック・フード」が、タイの食生活に及ぼす影響は、単なる「エキゾチック」な存在だけではない。この海外の異質な食文化こそ、明日のタイ・フードに対する、変革のインパクトを与えるだろう。というよりも、これらのエスニック・フードが、タイの食生活に同化されて普及するだろう。つまり正統性の保持よりも、タイの異文化吸収消化力が伝統的に強いのである。

その要因として二つ挙げてみよう。

第一は在り来りだが「主食が穀食である」。タイの主食はコメ(粒食)と麺(粉食)だから、外国食でも穀食は受け入れ易い。市中の米価も一キログラム二〇円から、外食の米飯メニューの単価も、当地の時給に見合っている。副食に欠かせない調味料、ナンプラ(魚醤)やナンプリック(蝦醤)が、風味の統一性の基礎である。タイ料理を「辛い」というのは、大量に食べる飯や麺の「おかず」だから、飯が少なければ辛くて当然である。

過食をつつしむことを忘れ、脂肪から塩や砂糖まで、何でも減らす一方の、米国式ダイエットよりも、アジアの知恵「米食」を尊びたいものである。ではタイの一般的な米飯メニューを挙げてみよう。カオ・パット(焼飯)、カオ・ニャ(蒸したもち米)、カーオトム・プラオ(白がゆ)、カーオトム・クルアン(具入りのかゆ)、カオ・タン(焦げ飯のココナツ・ミルク煮)、カーオトム・マッ(ちまき)、カーオラーム(竹筒入り飯)、ホイ・トート(揚げたもち)、これに米飯料理の多様なケーン(カレー)がある。

次に粉食メニューだが、代表はクィティオ(麺の総称)である。これには(1)コメを原料とする麺(2)小麦を原料とする麺(3)豆を原料とする麺がある。輸入製品のイタリアン・パスタもあり、各種の外国メニューも外食で味わえる。

原料小麦は、カナダ、オーストラリアからの輸入で、製粉は米国系の大手が進出している。そばに「かけ」と「もり」があるように、クィティオでは、ナムという語が付けば「スープのある麺」、ヘンが付けば「スープのない麺」を指す。このほか形態、具、調理法でバラエティーに富む。

麺の種類にはコメを原料とする、きしめん状(幅二~三センチメートル)の「セン・ヤイ」、細い(幅五ミリメートル)「セン・レク」、極細(幅一~二ミリメートル)の「センミー」の三種。小麦粉を原料とする、かんすい入りのバ・ミー(タイ風ラーメンと称される)一種。豆を原料とする、ウー・セン(豆粉の麺)一種がある。

メニューの一部を挙げると、カーノム・ジーン(薄く小さなボール状)、焼きそばには、パッセイユのほか、辛口のパッタイ、甘口のミークローブ、カノムチン(あんかけそば)などがある。

第二は「食生活の基本が一定」であること。言いかえれば「基本メニューが一定」である。理由は二つあるが、(1)は日本では忘れたパターンだろう。朝から晩まで外で働く農村では、一度に大量の食事を支度し、それが無くなるまで食べ続ける。この習慣から都市化の今も、同じメニューが続くのを嫌わない。日本なら「和風メニュー」でも、料亭、割烹、すし屋、釜飯屋、居酒屋、そば屋、丼飯屋、小料理屋とメニューは分かれる。タイでは屋台でも高級レストランでも、同じメニューが食べられる。

もちろん顧客の階層による「店舗選択」の差はあるが、タイ・メニューの基本形は同じである。今回、バンコクの一流書店をめぐり、タイ料理に関する本を何冊か買ったが、著者がタイ人であれ外国人であれ、世界に共通す →

→ る様式化された「メニュー編成」の本は少なく、料理の材料や分類も特異な感じである。実際、タイ人の描いたホーカー・フードの本も、完結型メニューのせいか分類が独特だった。この階層社会にあって、メニューが混在するのはなぜか。

それが(2)で、話は「王様と私」のモデルで有名な、料理好きのラマ四世にまで遡る。王はたびたび宮廷で料理コンテストを催し、大勢の側室は料理によって寵を競った。もちろん料理を作るのは、それぞれ側室のお抱えの料理人である。これがタイの「宮廷料理」を発達させる基になった。しかし王の御代が代わると宮廷に残っていられるのは次の王の生母だけで、他の側室はお払い箱になる。ご用済みになった料理人も町に戻り、宮廷料理のメニューや、フルーツ・カーヴィングの技術などが、庶民レベルの店にも普及した。

あたかもフランス革命以後に、失職した宮廷料理人によって、レストランが誕生した話と似ている。従って世界のホテル・ランキングで、常にトップの座を維持する、ホテル・オリエンタルが経営する、レストラン「サラ・リムナム」や、超高級ホテル・リージェントの「スパイス・マーケット」も、庶民の日常を支える路上の「ホーカー」でも、程度の差はあっても同じメニューが供されている。

このように庶民の「外食」を支え、「中食」の役割もになう「ホーカー・フード」を分類してみよう。まず西欧的な概念による「利用ニーズ」別の定性的分類である。

a=メーン・ディッシュ(個別の小皿盛りの主菜、飯は別皿で供される食事)

b=フル・ミール(個別の小皿の、飯の上に主菜が盛られて供される食事)

c=ヌードル(あらゆる種類の麺類、昼食や夕食となる食事)

d=スナック(甘味系、塩味系の多種の間食)

e=デザート(季節のフルーツ、ライス・プディング、ケーキ類)

f=ビバレッジ(清涼飲料、健康飲料)

次にホーカー・フードの「調理形態」別の定性的分類である。1から4までの形態は、店頭で加熱調理を行いながら、販売しているものである。5と6は加熱調理したものを販売、7と8は生の素材を加工、またはそのままで販売しているものである。

1=炭火焼きの調理をしているもの=サイ・クロク(腸詰)、カイ・ムー(焼豚)、カイ・ヤン(焼きとり)、ルク・チン・ピン(肉団子)、サテー(串焼き)

2=蒸す調理をしているもの=カー・ムー・パロー(豚腿肉)、サクー・サイ・ムー(豚肉とタピオカの団子)、フー・プラ・チャラム(ふかひれのスープ)

3=揚げる調理をしているもの=キィウ・トド(揚げワンタン)、ポー・ピア・トド(春巻)、トド・ムン・プラ(揚げカマボコ)、ツア・トド(揚げ木の実)、クルアイ・ケェク(揚げバナナ)

4=炒める調理をしているもの=ホイ・トド(ムール貝の衣炒め)、カーノム・クイ・チャイ・トド(野菜炒め)、ファド・タイ(焼きそば)

5=調理済で保温しているもの=パエ・クェイ(木の実のスープ)、ナム・タオ・フー(豆乳)、ヌン・ノク(ツバメの巣のスープ)

6=調理済で常温に置いてあるもの=カポー・プラ(豚皮のスープ)、カェン・カイ(ココナツ・チキン・カレー)、カオ・クルク・カピー(海老ペーストの焼飯)

7=冷蔵しているもの=ナム・ラミャイ(龍眼ジュース)、チャオ・クアイ(黒ゼリー)、ナム・ラク・ブア(蓮の根ジュース)

8=なま物=ポル・マイ・ドン(味付けした果実)、クルアイ・チュアム(バナナのシロップ漬け)、ポル・マイ・ソド(生の果実)

タイ料理の実査をすすめても、文献による利用ニーズ別・調理形態別の定性的分類を行っても、全容をつかむのは難しい。それは固有の定性的分類に加え、多くのエスニック・メニューとの「混合」が始まっているためである。国際化による文化交流は、いや応なしに食文化を混合する。

若者が集まるSCサイアム・センター、ここに「SUKI HI‐TEC」の看板を発見した(写真12)。ショーウインドーをのぞくと、多段の冷蔵ケースに具が並んでいる。好きな具を好きなだけ篭にいれ、熱源のセットされた食卓で、加熱して食べる仕組みだが、要するにマーケット・レストラン(写真13)である。この「SUKI」はタイ語化したsukiyakiで、略してスキという。名前から日本のスキヤキの影響と分かるが、実体はシーフードや豚肉、鶏肉、これにビーフン、野菜、エビ、イカ、卵の入る鍋物に過ぎない。これは高級専門店があるから、路上の土鍋を試すことはない。

ラチャダムリ通りに陽が落ちると、SCワールド・トレード・センター、ZENの前庭にビア・ガーデンが開く。日本なら夏開くビア・ガーデンだが、熱帯では冬が屋外の快適な季節である。冬季(12月、1月)でも気温は三一度を超す。ここのサービス方式は、ホーカー・センター(写真9)を採用している。お客はあらかじめキューポンを買って、ビールは専用カウンターで、ツマミは調理スタンド(写真10)で交換する。

アジア各国で見るホーカーは、路上の屋台(写真11)と考えられているが、タイに限っていえば、戦後の四〇年代に出来たものは、天秤棒の両端に荷を下げた、いわゆる「振り売り」の業態で(日本では江戸時代に生まれた)「都市型移動販売」の形式である。次が五〇年代の自転車で引く屋台で、カウベルを鳴らしながら歩く、機動性に富んだスタイルになる。これら多様な屋台が、町の一角に集うと、個別の魅力が相乗効果を発揮し、一つの商業集積を形成することになった。

しかし何といっても、ロードサイド・ビジネス(路傍の商売)だから、衛生面の不備が外国人をためらわせる。土煙りが立ちハエが止まる風情はすごい。夜のホーカーの風味を楽しみ「屋台の味が最高」とか「美味はホーカーにあり」というのは、一夜あけた屋台を見たことがない証拠で、ゴキブリで真っ黒なのが昼の姿である。ホーカー・フードを試すなら、給排水の設備が整い衛生的な食器のある「ホーカー・センター」が良い。

試食は文字通り「ホット・デリ」が良い。調理直後の高温ならハエもいない。「ハエが止まるのはうまい証拠」という衛生的感度の違いがあるからだ。試食を勧められるのは「調理形態」に挙げた、1、2、3、4項のメニューである。新鮮なフルーツでも皮つきなら、皮が「カプセル効果」で安全だが、皮をむいたり、切ったり、絞ったり、氷を入れたものは避けたい。前処理の工程が、清潔で安全な人と場所であったか、清浄な水や氷を用いたか、不明なものは避けることにしたい。

ホーカー・フードは、単品ならば皿盛りだから「軽食」とも捉えられるが、メーン・ディッシュも、サイド・ディッシュもあるからコース編成ができる。何よりも暑い土地柄から、家庭で加熱する「内食」調理は楽しくない。当地の「外食」は「家事の外部化」というより、むしろ「高温・高熱の外部化」にある。アジア各地の中国系の人々は、朝は外食がふつうだが、タイでも一般に「内食」は少ない。主食を尊重する国のホーカーでは、米飯との組合わせオーダーが多い。これは日本の「丼飯感覚」である。昼はテーク・アウトが多く、お客は中身の透けたビニール袋を下げて帰る。

メーンは肉や魚と飯の組合わせだが、人気メニューはご存知のサテーで、小さな肉塊の串刺しに、カレー・ペースト、ココナツ・ミルク、ピーナツ、唐辛子のソース。もう一種はキュウリと唐辛子を、酢と砂糖に混ぜたものである。また焼きソーセージ(写真14)や、スペアリブ(写真15)が売れている。かつての日本と同じように、肉は所得弾性値が高い商品なのである。このようなタイの現状は、昨日の日本の姿を見るようだが、実は世界の食の「るつぼ」のタイに、明日の日本の姿も見えている。

それは米国のカリフォルニアのように、移住したアジア民族が集まっている地域と違い、洪水のような異文化を受け入れるアジアでは、風土の築いた自らの食文化の潮流に、それらを飲み込んでいくのである。情報あれど資源なき日本の明日の食生活。日本は明治開国期から、西欧文明を消化してきた歴史がある。現代の情報量と解析力からいえば、明日の日本には第三の要因がある。

それは江戸以来のコメ本位制度と、その換金作物を消費する都市市民の存在がある(しかし生産者である農民は、雑穀を含む「五穀」を主食としてきた事実)。それが戦時の配給制度によって、「コメ」が全国一率に主食とされたこと。これが日本の「食の基本」がコメとして、確立された経緯である。戦後の増産政策の成功により、いまや米食は一〇〇〇年商品となった。高度成長のなかで所得弾性値が高い肉が、食生活を豊かにしてきたが、そこにも明治開国期の知恵である、「コメと肉のハイブリッド化」が導入された。

明治の「にっぽん洋食」のメニューは、いずれも江戸期に断絶していた「肉食」を、米飯とのハイブリッド化メニューによって、またたく間に全国へ普及させたのである。それは完結型副食としての、スキヤキ、トンカツ、コロッケであり、複合型主食としての、カレーライス、チキンライスである。二一世紀型の「異文化の食」の混交にも、新たなハイブリッド化の波が予測される。タイの食の変化を通して見る、日本の明日の食生活にも、このような伝統の英知が、再び求められることだろう。

(フードシステム研究所所長・田中千博)

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