シェフと60分 東京ベイヒルトン「マ・メゾン」料理長・関端克之氏
「今話題の日本でのフランス料理とフランスのフランス料理とは、あまりにも掛け離れている。まがいものである」といってはばからない。
日本のフランス料理、ジャパニーズフレンチというのなら問題ないが、純フランス料理という看板を掲げるなら「本物のフランス料理と同じものを出さなければ嘘」という。
食材を徹底してフランスから輸入して使うならいざ知らず、半分以上を日本の食材で代用したのでは、フランスのフランス料理と日本のフランス料理は違って当たり前。
「それぞれの国には、それぞれの食文化があり、他の国の人がそれを越すことはできない。違った食材を使い、自分達の方が器用だ、味が良いというのはナンセンス」。同じ条件にあってこそ比較できることだ。
今までフランス料理と思い込まされていたフランス料理は、「伝統としてまがいものをやっていた」。また、今は本場の味を気軽に出掛け食べられる時代だけに、「それに気付いている人は多い」。日本におけるフランス料理の新たな潮流は、生まれるべくして生まれ、この流れを大きくしたいという。
今、日本でフランスのフランス料理ではなく、アメリカのフランス料理を広めたいとする。
「奇抜な発想をするのがアメリカ人。その発想を保守的な日本人にどんどんぶつけていきたい」
日本は、皿の上に何と何を乗せなくてはいけないと約束ごとを大事にするが、こうした形を打ち破る自由な発想でやってみたいという。
例えば、肉料理にアボカドのピューレを添えて食べたら良いという発想は、「普通の日本人なら、お前気狂いかというだろう。しかし、実際に食べておいしければそれはそれで良い」わけだ。
日本人は伝統の日本料理が意識の底にいつも流れており、「美を追及するあまり、本当に食べておいしい味がおろそかになっているきらいがある」と見る。
「見て美しく、食べておいしいのが理想。これが難しく、両方できる料理人は少ない」
こうした厳しい発言も、長い間のアメリカ、カナダなど海外での料理人生活体験の裏打ちがあって発した言葉だ。
「日本風フレンチはもう古い。オーストラリアのフレンチ、アメリカのフレンチが出ていない」のは、怖くてやらないのか、わからないのか、受けないのかの三つという。
一〇年、二〇年前にはアメリカへ行ってフランス料理を勉強するといえば、「お前らバカか」といわれた時代。猫も杓子もフランスへと目を向けていたのだ。
今でこそアメリカ、カナダで勉強する料理人が増えているが、「それでもアメリカ、カナダの料理について触れる人が少ない」。いまだステータスとしてのフランス料理があると残念がる。
アメリカ料理は、ピザとかローストチキンなどに代表されているが、「もっと奥が深い」と力説する。
広大なアメリカは、地域により料理法も異なる。ニューオリンズではフランス人が多く移住した関係から母国のフランス料理をアメリカ風にアレンジし、ニューメキシコ、カリフォルニアではメキシコ料理の影響を受け、アボカドやスイートポテトを使ったアメリカ料理があり、ヨーロッパの料理といわれるビシソワーズも発想はアメリカである。
今後、まだまだ知られていないアメリカ料理を知らしめると同時に、日本でフランス料理とされていたものが何であったかを明らかにするために、エネルギーをぶつけていく覚悟だ。
セクションシェフとして人を管理する立場から、「若い人を動かさなくては仕事にならない」として、一から一〇まで教え、どんどんやらせる。失敗しても三回までは我慢するが、できない場合は“セクションを替える”と厳しい。
半面、一日の拘束時間の長い仕事柄、人間の集中する時間には限度があり、ランチ、ディナーを挟んだ三時間を集中すれば良しとする。スタッフにもこの体制で臨む。
「これからは人間管理、マネジメント力が求められる時代」、アメリカはマネジメントではハッキリしているが、日本では先輩後輩など人間関係が複雑にからむだけに、いっそう難しくなる。
いずれまた渡米し、人種差別ではないが、「白人社会で白人を使う立場の仕事をしたい」と抱負を語る。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
昭和36年東京に生まれる。昭和55年高校卒業後、子供の頃からの憧れであったコックの道に入る。プリンスホテルに就職後、新宿、池袋・サンシャイン、そして軽井沢、苗場などで修業を積む。昭和61年、念願の海外修業先としてカナダ・モントリオールヒルトンに転職。「料理とともに、英語、フランス語が学べる場としてカナダを選んだ。ちょうどヒルトンで手先の器用な人間が欲しいという要望に合致し、日本人の私がラッキーなことに採用されました」。以後、トロントヒルトン、ニューヨークのビスタインターナショナル、レストラン「カフェグレコ」、「TIVOLI」で料理長を務め、平成3年住み慣れたアメリカを離れドイツ・デュッセルドルフヒルトンに移る。平成6年、八年振りに帰国し東京ベイヒルトン「マ・メゾン」料理長として現在に至る。若きシェクションシェフとして腕を振るう毎日だが、来年ドイツで行われる料理のオリンピック“クイナリー・オリンピック一九九六”に参加しようと画策しているところだ。