痛快!脱サラ成功一直線(7)店舗内装工事から一転、古澤健志さん
古澤健志氏(31)の青春は、ボクシングでチャンピオンベルトを獲得するためにあった。ボクサーとしての厳しいトレーニングは、決してつらくなかった。背が低くきゃしゃな自分が、ドンドン強くなっていく。それが無性にうれしかった。しかし、新人戦でちょっとした油断から負けてしまった。相手には完全に勝っていた。しかし結果は負け。甘い自分を悔いた。
父の仕事は、店舗の内装工事。一〇人近い職人を使って、手広く商売をしていた。下請けが多かったが、とても素敵な飲食店舗を造っていた。二〇歳のころから、おやじの仕事を手伝った。明治リティルの「TAPA」、楽グループの「志るべえ」、「牛角」の初期のころの店舗を造った。店舗は大繁盛した。斬新でかっこいいデザインが、若者たちに受けた。雑誌も取材に来た。でもそれは自分たちの店ではない。大手ゼネコンの仕事も入ってきた。しかし、ゼネコンの一方的なやり方に腹が立った。ゼネコンの仕事では、ほとんど利益は残らない。ある日、思い切って父に話した。
「こんなこといつまでやっていたって、他人に利用されるだけだ。俺たちの店を造ろう!」
父は黙ってうなずいた。
昼は店舗の工事現場、夜は友人の店で包丁を握った。自分の店が持てる……そう思うと体は疲れているのになかなか眠れなかった。平成11年、たまたま通りかかった蕨の街でマンションの一階に貸し店舗の看板を見つけた。紳士服、雑貨店の撤退した跡だった。不動産屋さんを訪ねたら、三〇坪もあるという。
「大丈夫かな……」という不安がよぎったが、「乗りかかった仕事だ! 何とかなる、よしやろう……」と決意。保証金五〇〇万円、家賃三〇万円である。この場所が売れるとか、そんなことを考えている暇もなく、契約を済ませ内装工事に入った。何しろ、「もし一年以内に撤退するなら、保証金は返さない!」こう、大家さんに言われていた。
工事の途中でスタッフを募集、何度もミーティングを重ねながら、メニュー内容やサービスの仕方を考えた。良い仲間がそろった。ついに6月、何の予告もチラシもなしに開店した。一ヵ月間、店は閑古鳥が鳴いた。ほとんど客が来ないのである。毎晩スタッフとミーティングを重ねた。時には怒鳴り合ったこともある。少ない客に、良いサービスをしようと必死だった。
「本当に良いお店ね……」
帰る客からこう言われ続けた。徐々に客が入り出したのは二ヵ月後。それから評判が評判を呼び、12月には毎日のようにウエーティングがかかった。〆てみたら月商七〇〇万円を超えていた。
それからも店は繁盛し続けた。翌年には浦和に二店舗を開店させた。地域でも評判のオシャレな店ができた。若い人やご婦人がつめかけた。また新しい繁盛店の誕生であった。弟がやっていた東大宮の店もグループに加え、現在(有)TPD(That Produce Dining)は二億円近く売上げる飲食企業となった。
((有)日本フードサービスブレイン代表取締役・高桑隆)
●売れ筋メニュー
(1)とろとろ豆腐(五八〇円)(2)若鳥の立田揚げ(五八〇円)(3)海老クリーム春巻(二八〇円)(4)日替りチャーハン(六五〇円~)(5)大きな水餃子(四八〇円)*刺身盛り合わせ(九八〇円~)
●会社概要
◆ビストロ雑(ザッツ)=川口市芝新町四‐二五、三〇坪、平成11年開店
◆フュージョングリルと和隠 斬(ざん)=さいたま市浦和仲町二‐六‐六、二四坪、平成12年開店
◆オリエンタルキュイジーヌ 斬(ざん)=さいたま市浦和仲町一‐二‐八、一五坪、平成12年開店
◆らったDE O=さいたま市東大宮四‐二五‐九、一八坪、平成10年開店
*売上高=平月一六〇〇万~一七〇〇万円、12月予定売上高=二〇〇〇万円(四店舗合計)