これでいいのか辛口!チェーンストアにもの申す(39)無個性な街まん延
二一世紀を迎えようとした師走の街に、なんともやり切れない犯罪がまた起こった。京都市伏見区の、「小学生刺殺事件」である。犯人が逮捕されていないのでうかつなことは言えないが、現場に残された挑戦状の文面から神戸と同じ少年犯罪の様相をうかがわせる。犯罪とは無縁の静かな郊外の住宅街で、何故このような残忍な犯罪が起こるのだろうか?
神戸市須磨区の事件が起こった街も、緑豊かな静かな郊外住宅地である。サラリーマンが一生に一度大きな借金を背負い、三〇~四〇年のローンで購入する夢のマイホームが立ち並ぶ街。そんな街に、首を切り落として小学校校門にそえるという犯罪(神戸)はまったく似つかわしくない。
神戸も京都もいずれの街も、駅前にパチンコ屋が進出しようとした時でさえ、「青少年の健全育成に悪い影響を与える!」と大反対運動がまきおこるような、そんな安全で豊かで恵まれた郊外の住宅街なのである。ところが、なんとも残忍な犯罪はそこで起こった(京都の事件は、未だ犯人が逮捕されていないので断定はできない)。
この疑問の解決のために、ひとつの仮説を述べさせていただきたい。それは、「あまりにも、安全で、豊かで、恵まれ過ぎているから起こる」とも言えるのである。
そうした街に暮らしてみて初めて分かることだが、安全で豊かで恵まれた郊外の住宅街ほどつまらない街はない。確かに安全で緑豊かな街かもしれないが、駅前にパチンコ屋も無ければキャバレーも無い。どこの街にもある、怪しい駅裏の飲食街風景が見えないのである。
駅前は整然と整備され、屋台一つ出るすき間が無い。目の前には、同じ間取りの高層マンションが整然と立ち並ぶ街なのである。そんな無色透明な清潔な街は、何の刺激もない。わい雑なところが一つも無いのだ。だから素晴らしいのか、だからつまらないのか、意見の分かれるところである。
以前、首都圏の幕張メッセ臨海部開発に関係した、第三セクターの大幹部から聞いた話が印象に残っている。
「人工的につくられた街ほど面白みの無い街はない。この幕張は、埋め立て地のためにすべてが公有地である。故に居酒屋一つ麻雀荘一つ無い。ところが整然とした街並みに反するように、一番混んでいるのが横断歩道の下に出たおでん屋台なのだ。こんな街は、つくるべきではないのではないか。生身の人間が住む街ではない…」
しかしそんな、何も無い街の至る所に明かりがともっている。そう、チェーンストア系の店舗だけがこうした郊外の至る所に出店しているのである。それを表にしてみた。これだけの種類のチェーンストアが、郊外生活のあらゆる所に進出しているのである。
一見それは素晴らしいことのように思えるが、標準化された同じ品ぞろえの同じ形の店舗がどこにでもある情景は異様である。
千葉県の野田市と神奈川県の座間市、埼玉県の鶴ヶ島市と茨城県の牛久市、それぞれの街や地域には異なった歴史や表情や特徴があっていいはずだ。だがしかし、実際に駅に降り立って四~五分歩いてみると、この街がいったいどこなのかを忘れてしまうほど似通っている。
それは街の風景が一緒ということばかりではない。街角で出くわす、お店やレストランや居酒屋まですべて同じようなお店(チェーンストア)ばかりだからなのである。
チェーンストアは、標準化を徹底して追い求めてきた。あるコンビニチェーンは、標準店舗坪数に三坪足りないためによい立地の物件を断念している。一店舗の繁盛のためだけに、一〇〇〇店舗の効率を犠牲にはできないからなのだ。
だがこうした標準化は、さまざまな弊害を生んできた。標準化は、個性を嫌い個別の論理・理由を採用しない。だからチェーンストアの優秀社員は、皆同じような無個性な表情をしている。
郊外住宅地の不毛も、まさに同じである。安全で豊かで緑に恵まれた郊外の住宅街は、多感な少年たちから見れば、つまらない砂漠のような街なのである。余ったエネルギーを何かに思いっきりぶつけたいのに、何の刺激も無い。そこは、安全で豊かで緑に恵まれた郊外の住宅街だからである。
チェーンストアは、そうした無味無臭な郊外住宅地を形成する重要な役割を担ってきた。つまりどこへ行っても同じ、どこの店も同じ、安全で一見豊かで、品物やメニューが豊富なチェーンストア。でも、本当に感動するほどおいしいメニューや、あっと驚くような買い物のだいご味はそこには存在しない。
しかし、TVやドラマや劇画の世界では、いつも冒険やけんかや殺人や犯罪が満ちあふれている。若者に一番人気のあるファイターゲーム(拳闘)は、郊外の住宅地ではTVゲームのブラウン管の中にしか存在しない。
渋谷や新宿に出れば、見たこともないような刺激と危険にあふれている。その刺激を体験することは、「不良」であり「非行」なのだ。これも一つの社会問題だが、しかしそこに行けない中学生や高校低学年の少年たちには、そうした安全な街の片隅でうつうつとした気分でとぐろを巻くしかない。
そうしたうっ屈した気分が、つい犯罪への道を走らせるのではないだろうか。だからこうした異常な犯罪は、多感な青少年たちを無理やり封じ込めた閑静な住宅街で起こるのである。といえば、それは言い過ぎであろうか…。
チェーンストアが目指したような、安全で豊かだけれど中身は空っぽというような、そんな人生がこの世にあるわけはない。均一で標準化された人生なんかあるわけはないではないか。
「人間至る所青山あり」である。そんなアップダウンな人生を乗り越える力は、危険を顧みず挑戦する勇気に宿るのである。飲食業においてもそうである。標準化した同じようなファミリーレストランしかなかった郊外に、無名だが意欲あふれる経営者たちが今新しい波を生み出している。
「紅虎餃子房」で大人気の際コーポレーションは、東京郊外の福生市の街外れから出てきた店である。一二店舗しかないが、千葉市郊外で常に行列のできる焼き肉店として有名な「赤門」も特異な店である。社長が二八歳という若さで、青梅・相模原郊外で急ピッチで展開しているお好み焼き「道頓堀」も、週末は一時間待ちというような繁盛店である。
今神奈川県海老名市でひとり話題をさらっているのは、茅ヶ崎の超繁盛店で郊外居酒屋の「えぼし」の開店である。向かいのファミレスがガラガラなのに、この店の前には途切れることのない人波ができている。町田市の「志るべー」や湘南台の「八起」(やっと)。川越市、大宮市、船橋市、習志野市でも同じような名も知れない地元の繁盛店が大活躍している。
駅名を見なければどこの街か分からないような、そんな標準化された均一の住宅街などはもうまっぴらである。その街を形成してきた、標準化されたチェーンストアの役割はとっくの昔に終わっている。
二〇世紀の遺物、大量生産多量販売の効率優先の思想から抜け出し、もっと自由にもっと個性的にもっと大胆に生きる勇気とライフスタイルを持たなければならない。チェーンストア的な陳腐な工業思想を捨てて、もっと素敵な、もっと夢のある、もっと感動のある飲食店づくりのために、この二一世紀はともに努力しともに歩もうではないか! (仮面ライター)