シェフと60分:小川軒3代目店主・小川忠貞氏

1993.10.18 38号 8面

「ソースを作る過程で、変な調味料よりは水、水をうんと使うんですよ。以前、NHKの『今日の料理、プロのコツ』で放映された時には反響があり、大学の教授からも電話がありましたよ。生クリームと牛乳ではしつこいから水を堂々と使うんです」といたずらっぽく笑った。

小川軒ではまだミネラルウォーターという言葉も知られていなかった戦後まもなくから、海軍に飲料水を入れていた富士ミネラルの社長と三代目店主忠貞氏の父、順氏が親友であったこともあり、客にミネラルウォーターを出し始め、今日も続いている。そういう経緯があって、小川さんは水に対してずっと強い関心があったという。

しかし、瓶入りミネラルウォーターを料理全般に使うにはあまりにもコストが高くなり、使用は限定されていた。いろいろな浄水器を試してみたが、満足がいかなかった。料理に使ういい水が何かないものかと考えていたところ、あるメーカーから話があり、水を研究することになった。試行錯誤を繰り返し、やっと小川軒の料理に合う水にたどりついたのは、一年前である。

「科学的なことはわからないが、室温でおいしい水が最高」といういい水にたどりついた時は父が近江牛に出合ったときに「小川家もいい肉にめぐり合って、これで安泰だ」と言った言葉を思い出したという。

その水を使用してからは、紅茶、コンソメスープの味が特に良くなった。小川軒のコンソメは牛と水しか使わない。それまで、特に夏場、満足のいかない味になり、作り直していたが、プロにしかわからない微妙な味の違いだが「水のせいで納得できない味」だったと料理に対する一徹さをのぞかせる。

サラダ用の生野菜も水道水で二~三回洗ってから三〇分間、その水につけるとイキイキして長持ちする。朝、下ごしらえした材料が一日中新鮮な状態を保つという。翌朝になっても野菜のまわりが赤くならない。

小川さんは六年前に客からイギリスのおみやげとして塩をもらった。その塩でステーキを焼いたら最高の味を出すことができた。現在塩だけで焼く小川軒オリジナルステーキとして提供している。「水も、塩もあくまで料理の脇役だが、肉・魚と同じウエートで考えていかなくてはいけない」「水一つ、塩一つにしてもいいものに巡り合うことで商売が長続きする」と素材との出合いをとても大切にする。一方、いくらいい水を使っても、アルミの鍋を使用したのでは何にもならない。「ヨーロッパやアメリカではアルミは溶けてしまうと大問題になっているのになぜ日本では売っているのか」と怒る。現在、一三〇人ほどの女性に料理教室で教えているが、鍋はステンレスか土鍋かホーローにしてくださいと繰り返して言っている。

食卓塩、塩化ナトリウムもしかり。「これが体に残ったら腎職や肝臓に負担がかかるでしょう」やはり教室の生徒には「天然の塩がベタベタで使いにくかったら、炒って使いなさい」と教えた。マヨネーズはステンレスだと味が変わるので、ガラスの器を使用する心遣いも忘れず伝授する。

業界全体を考えた場合、「これからは水だけでなく、トータルで“健康”に対する関心が強まると思う。その中で、水の比重は大きいが、やはり、塩、鍋など、料理の素材から器具全体を点検していかないとだめ」ミネラルウォーターがプラスチック容器に入っているのはどうなのか、料理に幅広く使われているラップはどうなのか、小川さんが疑問視しているものは数多くある。ラップはなるべく素材を直接包まず、容器に入れてふたがわりに使うなど、できるところから健康に取り組んでいる。

「最終的には味も大切だが、健康が料理の本質」客の健康を考えると、野菜も無農薬で、ニンジン、玉ネギは北海道の産地から直接送ってもらっている。魚も大磯の河岸に行って鮮度の良いもの、安心できるものを仕入れている。商売の長続きを考えると、自然そうなる。

「このように恵まれたコックは少ないでしょうね」と祖父・初代の鉄五郎氏が明治38年に新橋に洋食屋を創業し、「小川軒前の新橋駅」と言ってはばからなかった伝統ある小川軒三代目当主を自然体で務めている。

会話の中に「商売の長続き」という言葉が何度も出てくる。八十余年の歴史の重みを「恵まれた環境」とさらりと語る裏には氏の自然体でありながらも限りない挑戦が見えかくれする。五年前に建て直した代官山の店は、渋谷に近くその立地条件からビルにして上層階を貸せば多額の副収入が見込めるところなのに、あえて二階建てレストランにした。

「遊んで暮らせるようになったら仕事がばかばかしくなる」という理由からだ。老舗を守る職人である。

文・福島厚子

カメラ・新田みのる

◆プロフィル

小川忠貞(おがわ・ただつら)氏、レストラン小川軒の当主。一九三九年生まれ。成城学園高校卒業後、三井倶楽部と丸ノ内ホテルの調理部で修業を積む。その後、フランスに渡り、約一年の料理研究ののち、コートダジュールのシェフを経て父のもとに。一九七三年、父の跡を継ぐ。

購読プランはこちら

非会員の方はこちら

続きを読む

会員の方はこちら