シェフと60分 KDDホテルストラーダ・川崎素裕総料理長 32カ国さすらいのシェフ
かつてペルーを中心とした南米での料理人放浪で蓄えたものを、いま放出する時が来た。
「二〇年近く、主のごとくやってきた文明堂だが、ここではできなかったことを、もう一度自分なりに挑戦してみたい」気持ちが沸々と湧き上がり、四四歳にして新しいスタートを切る。
「お客に喜んでもらい、店の前に行列ができる」ことを夢に、料理人としてのすべてを賭けようというのだ。
まず手始めに、パターン化されたホテルメニューにカツを入れ、時にはお客と一緒にメニュー作りをする。
早速にマレーシア関係の団体を迎えるが、マレー料理を入れてくれという要望があれば枠内に入れていく。「ベースはフランス料理におくが、ジャンルにこだわらない」が、基本姿勢。
フルコースの中に一品のペルー料理を入れたりし、外国人に歓迎の意を表すと同時に、日本人には外国のメニューを紹介する場にもしたいという。
また「売れる顔ではないが」、放浪してきた国々の旅の話を織り交ぜながらの料理教室も、企画の一つに入れている。
こうした構想が一つ一つ具体化できるのも、経営者の冒険心、度量の広さによるところ大だが、自身の長い間温めてきた南米への熱い思いがあってのことだ。
暗い青春時代だった。母親の涙をあとにボストンバッグ一つで上京、六畳で五人の部屋住まい。休みになるとホームシックに駆られ、東京から故郷に一歩でも近づきたい一心で、北千住にあるうどん・そばのスタンドで熱いうどんをすするのが日課となっていた。
五〇〇〇円の給料で四〇〇〇円を貯金、残る一〇〇〇円の小遣いでは、一杯二〇〇円は「いちばん安上がりな休日の過ごし方」だろう。
先輩、後輩の序列がはっきりしていたため、年齢に関係なく一週間早く入った者が先輩になる。当時、後輩が入らなかったため、四人の先輩のパンツ、シャツを一手に洗わされ、おまけに厨房では、生ゴミの入れ物を一日三〇個洗うという日々が三年近く続く。
こうした修練にも耐え、密かに勉強するうち、海外への脱出願望は日に日に募っていたところ、ついに駐ペルー大使館勤務の切符を手に入れる。こうしてその後の人生を大きく変えていく海外への第一ステップを踏み出すことになる。
初めて日本を離れたのが二二歳。目指す国は南米のペルー。フランス料理を志す者なら、一度はヨーロッパ大陸へと熱い視線を向けている中、あえてペルーへの道をとる。
「とにかく海の外に出たかった」という単純明快な動機。若さで突き進んだ料理放浪は、「地球の裏側の見知らぬ国に魅せられ、どんどん深みにはまり込み」ペルーだけに止まらず、メキシコ、ロサンゼルス、バンクーバーと、ついに二八歳まで続くことになる。
ペルーを皮切りに中南米、北米、カナダを歩いた料理放浪の情熱は、帰国後勤務した「文明堂銀座店」で独自のフランス料理として開花。そして今、新たな勤務地「KDDホテルストラーダ」では、「お客が希望するものをジャンルにこだわらず提供したい」と、かつて三二ヵ国を歩き得た蓄積を、料理メニューでぶつけていく腹がまえを見せる。
日本を離れ、辞書を片手のペルーでの生活は、「環境もがらりと変わり楽しかった」。
大使館勤務のブルーの目がきれいな、父親がスペイン人、母親がイタリア人のセニョリータを気に入り、持ち前の突撃精神から猛烈アタック。郷里の母親には一緒に帰るつもりと報告する。「勘当の一言で片付けられた」が、肝心のセニョリータは他の日本人と関係し、「腹が膨らんだのですべては終わり」。勘当だけは、免れた。遠い海の向こうでの出来事だった。
帰国後、現夫人と出会うが、ほとんど略奪婚にちかい形での結婚だ。
彼女は、すでに結納まで交わしていたにもかかわらず「電話をしまくり」、ついに休暇をとって奈良にまで押し掛け、強引に結婚に踏み切らせた。ペルーでの失敗を教訓としたのか。
初めてのペルーでの生活は、あまりにも環境が違い戸惑うことしばしば。
ある日、突然の戒厳令布告がテレビにより発表され、夜11時から明け方の6時まで外出禁止となった。
「夜中に銃声を何回か聞きました」。テレビのない貧しい者は、いつもと同じ生活をしている。街を歩いているところを軍人により射殺されたのだ。
朝になると、軍用トラックが死体を回収し、どこへともなく運び去っていく。また、貧しいインディオが、軍隊に入るとご飯にありつけるからと競って入隊、面白半分で銃を使い、人をあやめる事件は日常茶飯事。日本のように人権うんぬんは論外。「住民票もない国だったのです」。
また、水質が悪く、ほとんどの外国人は、石灰をたっぷり含んだ水を煮沸し、石灰を沈殿させた上澄みを飲むのが常。ところが、時として体に石灰がたまるやっかいなことに遭遇する。
「いまでも傷が残っている」という当時の荒療治は、麻酔もかけず、メスというよりナイフで切り刻むような手術だったと、恐怖の一時を語る。
こうした石灰を取り除く手術も日常茶飯事だったようだ。
・所在地/東京都新宿区新宿
7‐26‐40
・電話/03・5273・
3611
昭和27年、群馬県小泉に生まれる。家業は江戸時代から続くうどん屋。幼くして父親を亡くし、母親を助けて家族の賄いをする。
学業を続けたく、首相官邸の調理場に務めながら夜間高校、大学二部へと進むが、ペルー日本大使館勤務が決まり、やむなく中退。
以後、ペルーを振り出しにメキシコ、ロサンゼルス、バンクーバーのホテルで料理修業をする。最後の地カナダでは、大自然の素晴らしさに惹かれ永住の地と決めるが、寒い冬が巡ってくると里心つき、ついに六年余りの料理人放浪に終止符を打つ。
帰国後、文明堂で独自のフランス料理を展開するが、一八年目の四四歳で現ホテルに移り、国際色を打ち出した新しいホテルレストランに料理人人生を賭ける。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一