シェフと60分 ホテルセンチュリーハイアット調理部長兼中国料理長・山岡洋氏
勝って初めて知ったという鉄人の威力。
「弟弟子の陳健一氏との対決は断ったが、相手がフレンチの坂井宏行氏なら不足はないと出場した」
結果は、白菜対決で鉄人を破り勝利の矛を納めたが、「背中にホテルの看板を背負っての出場、緊張のしっぱなしだった」と笑う。
「翡翠宮」の総帥蔡良氏亡き後、日本人の料理長かと冷たい視線を浴びながら、しかも売上げも下がる四面楚歌の中、「これもチャンス」と逆手にとっての奮闘が勝利に導いたのだろう。
勝って一番嬉しかったのは、厨房内で出場前に皆で大根ならどうしよう、白菜ならとディスカッションをし、勝った後もこの気風は残っているという。
「今までこうした話し合いをすることはなかった。それにテレビの影響か、客が戻ってきました」。観戦者と違い、当事者にとっては真剣勝負だったようだ。
「男のロマンは競馬」というほどの入れ込み方だが、ゴルフも月二~三回、ホテル内や料理人仲間と行き、「この間は、長年の夢だった初めての三九を出した」と日焼け顔をほころばせる。
今まで何回かチャンスがありながら四〇が切れなかった。「連続パー六回ということもあったが、第七ホールでビビってしまった」とプレッシャーに負けてしまった自らを悔しがる。
人のいないエレベーターなどの中で、皿を持った気分になって、密やかにイメージトレーニングを楽しむ。もちろん「プラスのイメージです。マイナスはすべて捨て去るのです」。
いま注目しているのが大豆だ。
「大豆は、豆腐になり、豆乳になり、いくらでも化けることができる」
中華の素材にこだわらないのが信条。「食材は横糸、縦糸の中国料理伝統の調理法があり、組み合わせれば和食、洋食と素材は無限に広がる」
構想中のものに、テーブルに電磁調理器を置き、鍋に豆乳を沸かし、苦汁を入れ豆花を作る。これを三~四種のソースで食べるというもの。
応用して海鮮しゃぶしゃぶもでき、「料理の中で、こうしたものが出たら面白いだろうな」と、アイデアはどこまでも膨らんでいく。
中国料理厨房の総帥となった現在、頭の中は次から次とチャレンジしたいものがよぎり、どう具体化するかに嬉々としているように見える。
目前に6月のイベントが控えているが、中国の百菜百味をもじり七菜七味を構想に描く。
「レインボーをイメージし、料理全体が七色の味で流れていくのです。ピリカラがあって、しびれ、醤油、甘酢、うま味……」料理の話になると、今までの言葉をひとつひとつなぞるような口調だったのが、人が変わったように饒舌になる。
初夏の蘭の花びらをフカヒレスープに浮かべるメニューも構想の一つだ。香港、北京では中国の夜来香を使うが、これをヒントにしたもの。
「街場のレストランと違い、ホテルではきざと思われるほどの演出が必要」なだけに、大舞台をどう演出するかに男のロマンを賭ける。
薬膳料理、小皿料理どれもがホテルに入る前からの夢だった。
今でこそ何の違和感もなく受け入れられているが、「二〇年前、小皿料理は、洋食かぶれと相手にされなかった」と当時を振り返る。
薬膳料理も、入社早々に蔡料理長に提言するが、時期尚早と一蹴される。
そうこうするうち、ホテルオークラが北京から料理人を招きフェアを開催したが、「北京の味をストレートに出したため失敗に終わった」。
「親父は完璧主義者」、満を持して開催したのがオープン後五年目。同じく北京から料理人を招待するが、「委せては失敗するからと看板に据えた」のが奏功し成功裡に終わったという。
「日本人には、薬膳といって薬草臭さを表に出してはいけない。全体の流れの中にメリハリを利かせて、隠し味的に使うのがよい」が持論。
今年で一〇回になる翡翠宮薬膳のテーマは「太陽の恵み」。太陽の光を浴びた素材、アワビ、フカヒレ、貝柱などのほか、中国にない大豆の粉も入れている。
日本の生八つ橋にヒントを得て「益気人参黄豆角」というデザートを作り上げた。
「素材は、和洋中を問わない。調理法さえ間違えなければ」と、日本料理からのヒントを大切にする。
師父の蔡良氏を評してこういう「三五年間料理をやったが、こんな人はまずいなかった。目の動き一つで読み取られる。どっちが寝首を掻かれるかと真剣勝負で対していた」と。
十何年、繰り返し人を試す質問を浴びせてくるのには閉口するが、逆にいつ試されてもいいように、さまざまな情報を仕入れたり、本を読んで勉強したりし、結果として「良き先生を頂いたと感謝している」。
厨房内は日本人グループと中国人グループの二派に分かれ、「まさに日中戦争だった」という。
「親父さんには豆腐とあだ名されたが、あの人の強さに洗脳されたら厨房内は維持できなくなる」と、最後まで豆腐で通す。
「私の一生は忍の一字」と笑うが、中国人と日本人の間にありながら、両者のバランスを保つため豆腐に徹した胸中はいかばかりであったろう。
こうした葛藤の後「死ぬ二年前には、本当に信用されているのを感じた」というのがせめてもの救いだ。
昭和17年、横浜生まれ。以後、中学卒業まで新潟県直江津市で過ごし、一五歳で上京、鉄工所に勤める。父、兄ともケーキ職人だった影響もあってか、一七歳で料理の道に転向、スタートは洋食だったが、後、中国料理一筋に進む。
三六歳で大手給食会社の料理長に就任するが、将来は一流ホテルの料理長になる夢を抱き始め、ダイヤモンドホテル金剛飯店、赤坂飯店、新亜飯店などで修業後、ついに念願のホテルセンチュリーハイアット開業と同時に「翡翠宮」副料理長として入社する。
九五年、師と仰ぐ蔡良料理長亡き後、料理長に就任する。師の遺志を継ぎながらも、自らの新しい課題に挑戦する日々である。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一