シェフと60分:日興青山倶楽部総料理長・遠藤十士夫氏 大根で100通りの料理
日本興業銀行の迎賓館「日興青山倶楽部」。築五〇年以上という日本建築のたたずまいは、一歩入ると都心の青山であることを忘れさせる。
「一日三組のお客さんでやっています。それ以上は一〇〇%のもてなしができませんから。最近では、お客さんによって器や灰皿、はし置きなんかを変えていくような料亭も少なくなってきました。それでは修業の場としても若い人が育ちません。客によって千差万別の対応ができる料亭というのが、料理に対する心構えができている店といえると思います。私もお客の好みの花までつかんで生けていくようにしています」
内部の隅々までわたる心くばりが、客を和ませる。
中学を卒業後、地元の百貨店「丸金」に入る。「料理屋というよりは何でも屋、料理屋兼魚屋といった具合」の店だった。
「とにかく何でもさせられる所で、朝は5時に起きて河岸へ、帰ると師匠の子どもの子守り。その子どもをおぶったままてんびんもって、山のわき水をくみに三往復くらいしてたかなあ。お昼を食べて、夜の仕込みが終わったら、近所へアイスキャンデーやカツオを売って歩かされました。そんなんだから『あそこで一週間続けられたら変人』なんて世間では言われていたようです。私がそのうわさを知った時はすでに半年過ぎてましたけど」
「師匠はとにかく人使いが荒くて、いかにもうけるか、そればっかり考えていた人ですけど、腕はよかったですね。九年勤めた後、東京に出てきてほかの師匠を見て、なんだ、こんなものかと思ったくらいです。技術の基本はしっかりたたきこまれたし、商売人の根性も学びました。それと私はあまり遊びたいという思いがなかったみたいで、厳しい修業に不平不満がなかったんですよ。たまの休みは東京へ行って『いつか出よう』ってその時のことを想像して、それだけで十分楽しかったんです」
東京にはコネがなく、何度も萬屋調理師会の五代目会長のもとへ通い、やっと上野稲荷町の料亭に入る。そして二七歳の若さで湯島の「ひらの」のはつ板に迎えられ、その後、銀座「吉澤」、池袋「中川」を経て、昭和53年に日興青山倶楽部の料理長に。
「修業には終わりがないものですね」
一番上になったからといって向上心を失ったら料理人もそこまで、と考える。
「日興青山倶楽部に来ておよそ二〇年。だれも何をしなさい、とは私には言わないわけです。ですから、私はいつも自分に課題を出しています。今は大根。大根を使った料理を一〇〇考えよう、といった具合に。ずいぶんたまりました」
と出したノートにはイラスト入りの大根料理がズラリと並ぶ。
「もちろんつくって、まずお客さんに味をみてもらって、おいしいというものをノートに書いています。一〇〇を超えたので、今度はじゃあ年末までにいくつできるか挑戦中なんです」
「私も若いときに比べたら技術は衰えたと思います。でも、昔覚えたカンというのはなくならないですね。どんどん研ぎ澄まされていくという気さえします。ただ、今の人はレシピを見て料理するでしょう、あれではいつまでたっても覚えないでしょう」
という遠藤さんのお弟子さんは四人。教育の仕方は「すべて逆に教える」。お造りは新人に担当させている。
「お刺身はすべて厚さを変えて切るんだとかの説明は、きちんとはじめにします。そうすると責任感をもって、とても神経を尖らせて仕事するんです。私の考えと違うものなら、目でそう言います。けど、言葉ではあまり言いません。そうして二度三度と繰り返して体で覚えていくのです」
遠藤さんもお弟子さんもこの屋敷で寝起きをともにする。家族同然だが、責任は重い。
「一番早く起きて、一番最後まで仕事しているのは私。弟子たちがいつ見ても、仕事や書道の練習をしているなら、信頼してもらえるでしょうし、また目標にもなるので、私も気を抜きません」
毎日が修業と考える師の背中を見て、弟子たちがどう育つか楽しみにしているようにもうかがえた。
◆プロフィル
昭和15年、茨城県生まれ。一五歳でこの世界へ入った。厳しい師匠のもとで九年修業するが、このころのことを思えば、どんなことでもできるという。アイスキャンデーやカツオを近所へ売り歩く仕事がきつかったが、頭脳プレーを駆使し、売上げは同僚のなかでもトップ。料理人としてだけじゃなく、商売人としての根性もこのとき学んだという。
テレビやマスコミに料理人が注目されるようになって、弟子入りを願う若者が増えた。
「昔は日本料理は気位が高いというか、気難しい感じはしましたね。これからは売り込む時代であっていいと思います。そうしていけば腕のよい料理人が増えると思います」
ここでは、OLを辞めてここに入った女性が新人。はじめはあまり期待していなかったというが、今ではその根性と熱心さに感心している。
文 石原尚美
カメラ 岡安秀一