センティナリアン訪問記 百歳人かく語りき:東京都・冨田サトさん(100歳)
子どもの頃はおてんばで、袴をはいたまま、川や田んぼに入って魚を取ったり、木登りをして遊んだ冨田サトさん。
戦時中は疎開先で難儀もした。歩くことが大好きで、「長生きの秘訣です」と元気に語る。
◆おてんば放題 けれど母は優しく
サトさんは1907(明治40)年12月19日、東京都中野区で生まれた。
「尋常小学校時代はおてんばで、学校から帰る途中でトンボを取ったり、木に登ったり、袴をはいたまま川に入って袴の裾をザルにして、メダカやオタマジャクシを捕まえるのに夢中になっていました。川べりにカバンを置き忘れて家に帰ったこともありました。そんな私に母親は小言一ついいませんでした。お腹がすくと、糠床に手を入れて漬け物を取り出して食べました。そんなことをしても母は何ともいいませんでした。しかし、ごはんを1粒でも残すと叱られました。3歳下の妹は勉強好きでおとなしい子だったので、銘仙を着ていましたが、私はしるしばんてんのような生地の木綿を着せられていて、破れても叱られませんでした。妹は後に東京女子大に入り、通訳になったぐらいですから、子どもの時から読書好きでした。私はポンチ絵を隠れて読んでいて、それが母に見つかり、ひどく叱られました。それで少女雑誌を読むようになりました。母親から“着物はいつでも買ってやれるけれども、学問はいまやらなければできない”と諭されて、女学校に入りました」。
天真らんまんに育ったが、母親の躾の厳しさも思い出す。
◆夫の実家で2反の畑仕事
サトさんは19歳で結婚。夫は7歳年上、東京・武蔵小金井の地主の次男で小学校の教員。婿養子としてサトさんの家に入籍した。「主人は無駄口をいわないで、よく働く人でした」と、亡き夫を語る。
サトさんにとって辛い思い出は、戦時中の疎開先での苦労だ。「夫の実家に疎開しましたが、農家で2反(約600坪)の田畑を持っていました。小作人はみな兵隊にとられて、私は毎日6時前に起きて畑仕事をしました。舅から、“自分たちが食べる物は自分で作れ”といわれ、陸稲や麦や野菜を作りました。おかげで、お金は1銭も使わずに夫の給料は貯金しました。しかし、農作業ではずいぶん辛い思いをしました」と、戦時下の艱難辛苦を思い出しながら話す。
この12月19日には101歳の誕生日を迎えるが、20歳は若く見える。杖を使うがしっかりと歩く。
「長生きできた秘訣は歩くこと。それから、自分のことは何でも自分ですること。食べる物は好き嫌いがないこと」ときっぱり。質素な生活を旨としている。親の躾と戦争時の体験がサトさんの生活信条に大きく影響しているようだ。
家族はお嫁さんとの2人暮らしだが、サトさんは自分の食事は自分で支度する。週に2日、ヘルパーさんと散歩がてら買い物に出かける。部屋の掃除はヘルパーさんの手を借りるが、炊事、洗濯、布団の上げ下げは自分でやる。「乗り物が嫌いなんです。とにかく歩くことが好きで、若い時には中野から新宿までよく歩きました。元気の秘訣は歩くことです」と説く。
3年前から中野区のデイサービスセンター「マ・メゾン」に週2回行っている。お仲間との会話や食事を楽しみ、充実した時を過ごす。「生涯現役」を理念に掲げる同センターの“模範”を示すサトさんだ。
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