センティナリアン訪問記 百歳人かく語りき:東京・志賀夘助さん(101歳)

2004.02.10 103号 12面

春の日の昼下がり、追いかけたモンシロチョウがスーッと入った捕虫網。夏の朝、木を揺すって採ったクワガタをそおっと入れたビン。小さい頃の思い出に、昆虫採集に熱中した日々が蘇る人は少なくない。あの時のあの道具、たぶんこの人が開発にかかわったのかも。今月の「百歳人」は、“日本の昆虫学の父”と呼ばれる志賀夘助さんの登場だ。

生まれは日本一の積雪地帯として知られる新潟県の松之山。当時は交通が近隣と遮断され、田畑も段々に作るしかない大変貧しい村だった。農地を持たない志賀家の生活は苦しかった。六人兄弟だが、病気で一人、二人と欠け、五歳の節句を迎えられたのは長男と二男の志賀さんだけ。そんな中、志賀さんも風邪の高熱の後、細菌が入り片目を失明する。

「いまの人は想像がつかない生活だね。栄養が足りなくて病弱だったけれど、昼は麻紡ぎ、夜はわら仕事、子守とよく働いた。農村では子供も大事な働き手、けれど私は勉強がしたくてね。ようやく九歳で念願の小学校に上がることができました」

片目が見えず身体が弱い。家が貧乏。そんなことで同級生にからかわれても、新しいものを習う授業そのものが楽しく、志賀さんは勉強ができる生徒になっていく。卒業後、校長先生の家に奉公に行き、高等科に上がることになった。

「しかし実際行ってみたら、ここでも子守とおさんどんで大変。先生の家の子をおぶっているので、泣かれたら教室を出なくてはならない。お昼の一時間前に戻って、寝泊まりの教員の分も含めて一二~三人分のご飯作り。三年の時は学校の用務員の仕事もしたので、授業に出られたのは本当に何日かです。どんなに私が勉強したかったか。もっと知りたい、もっと分かりたい、そういう願望でいっぱいでしたね」

そんな志賀さんが勉強できるチャンスと大事にしたのが「トイレの中」だ。

「見つからないように、小さな本を着物の袂に隠して入った。漢字や英語の辞書も薄暗い手洗いの中で、顔を近づけて素早く引きました」

苦労の甲斐あって、それでも卒業証書は手にすることができた。地元の石油会社を経て、上京。

「なんとしても東京に出たいと。行ったきり音沙汰のない兄の二の舞いを心配した父を説得して、一四円の貯金の四円を渡し、ゆかたとてぬぐい一枚ずつだけ鞄に入れての出発です」

東京では時計屋・漬物屋での奉公。働き者だからどこでも重宝がられた。

「漬物屋の主人はゆくゆくは店を継がせるとまで言ってくれた。食うに困った子供時代からするとありがたい話です。けれど私はまだ知らない未知の世界で、“何かを身につけたい”“何かを究めたい”という憧れがあった。それが何かはその時点では分からなかったのですが」

それは予感というものだったのかもしれない。志賀さんはその後すぐ、「昆虫標本製作所」という不思議な場所に奉公に行くことになる。

「標本を見て、なんてきれいなんだろうと、声を上げてしまいました。直感です。昆虫は何か探求心をかき立てるような、魅力にあふれていました」

ここでも先輩が一人いたから、なかなか昆虫を触らせてくれる本業にはつけない。中心はやはりおさんどん・掃除・片づけ・子守。「昆虫の名前を覚えたい、図鑑が見たい」と憧れながら下積み生活が続いた。夜中にそっと起きて、主人が寝ている部屋に行き、図鑑を出しこっそり広げてみたこともある。

「何千、何万という種類の昆虫の解説と線描画が出てきて。これはとても覚えきれないとため息がでましたね」

しかし憧れの「昆虫の仕事」もその後、「採集」を中心に任されるようになる。先輩が実家へ帰ることを契機に研究所に来て四年後、ようやく「標本づくり」に着手できるようになった。

一一年奉公し、二八歳にして志賀さんは自分の店、『志賀昆虫普及社』を出す。「昆虫学を日本に広げたいという気持ちから、その思いを素直に社名につけた」という。

昭和30~40年代の昆虫ブームを支えた数々のヒット商品は、この店から誕生している。八の字にひねって小さくたたむ網枠を使った「シガ式ポケット捕虫網」。さびないステンレスの標本有頭針。捕虫網なら、網の袋の部分、柄の部分、金具の部分と、この人ならという、それぞれの一流の職人に依頼し、店で組み立てるという手間のかかる方式だ。いつもいつも「もっと知りたい、何かを究めたい」と強く思っていた、志賀さんの輝く志が、一つ一つの品物にあふれている。

「昆虫に出会ってからは、昆虫に対する好奇心が、さまざまな苦労を癒してくれました。けれど不思議なものですね。自然の中に育ったのに、食うに困っていた子供の頃、私には昆虫との思い出はないのです。でも子供時代に思い切り昆虫を追いかけていたら、私はこの仕事についていたかどうか。私と昆虫との出会いはまぎれもなく一七歳です。あの時、心を揺さぶられて、これしかないと思った。それも良かったのかもしれませんね」

志賀さんは現在、東京・渋谷の『セントラルホーム松濤』で暮らしている。101歳の元気を支えているのは、やはり旺盛な食欲だ。毎食、食堂に降りて入居の皆さんと基本的にすべてのメニューを残さず食べるという。「好き嫌いはありません。お刺身が特にお好きで、特別メニューとしてご注文下さいます。月に1度、ご家族がお見えになって近くのウナギ屋さんで外食するのが楽しみのようです」(橋本剛一施設長)。『セントラルホーム松濤』では、血圧や糖尿などの個人の体調に合わせた特別メニューや、来客がある日のオーダーメニューにも対応している。電話03・3485・5131

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