忘れられぬ味(19) キッコーマン社長・茂木友三郎 ロスの蒲焼きとかき氷

昭和30年代のなかば、私はアメリカのニューヨーク市にあるコロンビア大学の経営大学院に留学していた。学生寮の一四階に住み、三度の食事はほとんど寮の食堂でとっていた。

勉強は大変厳しいものであった。毎日の読書量は、もちろん英語の本だが平均一〇〇ページぐらい、しかもその上レポートを書かなければならない。一日の平均睡眠時間は五時間程度だった。

そんななかで数少ない楽しみの一つが、たまに日本料理屋に行くことだった。当時、ニューヨーク市には日本料理屋が七軒しかなかった。数百軒といわれる現在と比べると今昔の感に堪えない。

寮の食堂と比べると日本料理屋は高い。比較的安い店が大学の近くにあったが、それでも貧乏学生が行けるのは月に一回かせいぜい二回だった。

料理の質は学生にとってはまあまあと感じられたが、どうしてもまずくて食べられなかったのがうなぎである。試しに大枚をはたいて当時ニューヨークで最高の店に行ってみたが、結果は変わらなかった。私はうなぎの蒲焼が大好物だ。慶應の学生の頃、何日か続けて蒲焼を食べ、おできが出来て困ったくらい大好きである。だから、うなぎがまずいのは大変なショックだった。

もう一つないものがあった。かき氷である。ニューヨークの夏は暑い。アイスクリームは、当時の日本のものと比べて特大クラスが、しかも安く手に入った。

しかし、かき氷はどこをさがしてもなかった。コニーアイランドに似たようなものがあるというので出かけてみたが、似て非なるものだった。

ないとなると、余計に欲しくなるものである。うまいうなぎの蒲焼とかき氷をなんとしても食べたかった。

そうこうするうちに、夏休みの後半、アメリカ一周の汽車の旅をする機会に恵まれた。

夏休みの前半アルバイトをしてためたお金に加えて、当時のキッコーマンの現地の責任者から各地の日本料理屋をたずねる特命をもらい、ニューヨークからカナダ経由で西海岸に着いた。

そしてロスアンジェルスのリトル・トーキョーといわれる日本人街にたどり着いた時、待望のうまい蒲焼そしてかき氷にめぐりあった。ロスアンジェルスに滞在した数日間、日本の味と変わらない蒲焼を何回も賞味した。

西海岸に着き、久しぶりに太平洋を眺め、海の向こうに日本があると思って、感傷にふけった時よりも、蒲焼とかき氷を食べた時の方がはるかに感激したのを思い出す。

(キッコーマン(株)社長)

日本食糧新聞の第8298号(1997年12月1日付)の紙面

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