忘れられぬ味(71)明治製菓・北里一郎社長「好き嫌い」

菓子 ニュース 2001.09.28 8903号 2面

今では何でも食し、健啖家と言われている私も、幼少の頃は好き嫌いが多く、偏食傾向がかなり強かった。

一九三八年5月、父が帝国学士院より学士院賞を受賞した時、東京會舘で身内だけの祝賀会が開かれ、私も日本間の宴会場の末席に座らされた。型通りのあいさつと乾杯の後宴会が始まり、すきやきのサービスが始まると、皆楽しそうに鍋を囲んだ。東京會舘がその一〇年前から提供し始めた「京風すきやき」は大好評で、関西生まれの牛肉料理が関東名物の「牛鍋」の座を奪ったと言える時代の話である。

しかし残念ながら当時の私は、すきやきが大の苦手であった。その理由(わけ)は、牛(ぎゅう)は挽肉でなければ駄目、野菜は嫌い、白滝は喉につかえやすい、辛うじて食べられるのは豆腐くらいという状態だったからである。そこで私はわがままにもサンドウィッチが食べたいと申し出た。しばらくして運んで来てくれたのは、私の大好物のタマゴ・サンドであった。御腹(おなか)が空(す)いていたせいもあるが、極めて上等な代物であったことは、今でも脳裏に記憶されている。当時の東京會舘の製パンチーフは、帝国ホテルが招いた白系ロシアのパン職人のお弟子さんで、味には定評があり、今でもその伝統は引き継がれていると聞いている。

宴会もお開きになり、家族で帰路についた車の中で、うとうとしている私の耳に父の声が聞こえて来た。「今日のすきやきは実においしかったし、値段も高くなかったけれど、一郎が特別注文したサンドウィッチは高かったな」。この一言は幼い私の胸に強く突き刺さり、今でも憶えている。当時のすきやきは一円二〇銭からで提供されていたことからして、タマゴ・サンドも同じくらいの値段で出されたのであろう。

その後、太平洋戦争に入り、食料事情が徐々に悪化して行くにしたがい、私の好き嫌いは完全に解消し、何でも食べられるようになった。そして過日、東京會舘の地下「八千代」で、すきやきを食したが、極めて美味であったことを付け加えておく。

以上、「忘れられぬ味」というコラムの題材として適当か迷いつつ、また、昨今の厳しい世界情勢の最中(さなか)、駄弁を弄(ろう)したことをお許し願いたい。

(明治製菓(株)社長)

日本食糧新聞の第8903号(2001年9月28日付)の紙面

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