シェフと60分 シェ・イノオーナーシェフ・井上旭氏 「料理の神髄は守りと挑戦」

1996.05.20 101号 7面

一〇代で料理の世界に入った。フランス時代はマキシム、トロワグロと当代一流のレストランで料理の腕を磨くと同時に世界の一流人たちを厨房越しに垣間みた。特にロアンヌという小さな街にある三ツ星レストラン「トロワグロ」のジャン・トロワグロの影響を強く受ける。日本に帰ってきて東京・飯倉のシャドネー、博多のレストラン花の木、東京の銀座レカンの料理長を経て一〇年前に独立、東京・京橋に「シェ・イノ」を開店する。昨年暮には、渋谷に庭園付きの「マノワール・ディノ」をオープン。レストランウエディングなど、シェ・イノとはまた違う新境地を井上流に育んでいる最中。一九四五年生まれ五一歳、鳥取県出身、脂がのっている。

「早くしてよ、早く、忙しいんだよ」とまくしたてる。せっかちである。ぶっきらぼうにも映る。これで初対面の人はほとんど面食らう。

しかし、目は意外に子供のような無邪気さが漂っている。シャイなのである。人は「無邪気さと集中力を合わせ持つ」と称する。

はやり廃りの厳しい料理の世界で正直にフランスのフランス料理を貫いてきた。

シェ・イノの三宗直紹料理長は「井上シェフの姿は尊敬してやまないジャン・トロワグロに教えてもらったものを日本の次世代に教え残さなくてはいけないと自分に課しているようでもある」と時代にこびずに本筋を通すかたくなさを語る。

トロワグロから得たものの一つに「料理の流れを止めるな」というものがある。努力して会得したものは自分の物だけにせずに後に続く者にすべて教える。そうやって人が育っていけば、自分の料理が絶えず受け継がれていく。そのためには幹は太くなくてはいけない。

常に栄養を吸収していなくてはいけない。その辺を井上さんは「フランスから帰ってきて二三年間、コツコツ積み重ねてきた。それが信頼となり、店を作ってきた。良い料理を作ればいいお客が自然に来てくれる。良いお客からはこちらも学ぶことはたくさんある」と語る。

最大の財産は良いお客であり、そこから常に自分を磨き、自分を成長させて常にお客には新鮮な感動を与え続ける努力をする。この真摯で真剣な姿がまた、厨房内で次の芽を息吹かせることにつながる。

フランス料理はとかくトラディショナルを重んじる。しかし、真の伝統は守ることの大事さとともに、新しいことの創造なくして継承はありえない。守りと挑戦、この厳しい対峙は一見矛盾しているが、これが成立すると一流の客が押し寄せてくるということになる。

日本においてホテル以外の街のレストランにおけるフランス料理の普及時代に半生を注いできた井上さんは「料理人は自分が一番うまいものを作っていると思っているもの。そうでなくちゃ、うまいものなんか作れない」との自負を持ち続けながら守りと挑戦に挑んできた。

「昭和39年のオリンピック当時は街場のレストランの数も少ないし、フランス料理の魅力をまず語らなければいけなかった。しかし、最近はヨーロッパも近くなり、フランスを語らなくても受け入れられるようになった。そういう意味では、ますます真剣に良いものを作らなくてはいけなくなってきた」

井上さんのソースの妙はその名の知れ渡るところ。最後に一流の人を呼べる極意を聞いた。「魚をおろしたり肉をさばくことを体が自然にできるようになって初めて頭を自由に使うことができる。まず、料理のイメージをザクッと作ってから細かい部分を組み立てていく。見える姿形と見えない味とのバランスも大事」。

「誰が食べるかによってソースの味も微妙に変わってくる。また、利用動機によって料理、皿、テーブル、店内とどこに焦点を絞るかという遠近感も必要」。大胆かつ繊細といわれるゆえんである。

このほど、一冊でレストランを体験して欲しいと同朋出版から「INOUE THE WORKS」を発刊するなど、多忙である。

文・カメラ 福島 厚子

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