シェフと60分 DA-CARLOオーナーシェフ ダ・カルロ氏
イタリア料理人気は、あいかわらず根強い。特に、ピッツァ人気はうなぎのぼり、各レストランは手をかえ品をかえ演出の仕方も含めて新しいアイデアメニューづくりに余念がない。挙げ句の果て、和風のトッピングを用いる店まで出てきた。
「どんな料理でもクラシカルな基本というものがあるでしょう。まずそれを正しく習得することが先決。僕は、ホンモノのイタリア料理を提供することが使命だと思っている」
ダ・カルロさんは、決して日本人の食感に合わせることはしない。和風ピザと称して日本の食材を使ったりするのは、日本に対して失礼ではないかと考えている。イタリアにない食材はいっさい用いない。
とすれば、食文化の異なる日本人に果たして好まれるのだろうか。はじめは少し不安もあった。しかし、毎日店の前に順番を待つお客さんの行列ができるのを見て、自分のやり方に自信を持つ。
「刺身を食べる時イタリアではレモンを絞るけど日本では醤油につけている。その国の料理はその国の流儀で食べるのが礼儀と思っている」そうで、イタリア料理シェフたるもの、まずイタリアへ行き繁盛店でみっちり修業を積んで基本をしっかりマスターするのが道理と話す。
ましてや、釜の使い方、材料の分量、生地のつくり方さえ知らないものが、ピッツァシェフとしてまかり通っているのが現状。「名古屋でも僕が知るかぎり、まともなイタリア料理を食べさせてくれるのは数軒しかない」と手厳しい。
「巷でイタリア料理がはやってるからやりだしたわけじゃない。当たり前ですよね、イタリア人の僕はこれしかできない。昨日より今日と、よりおいしいピッツァをつくろうとしているだけ。ただそれだけ」
無心においしさを追い求める姿が見えてくる。
「石釜の温度、タイミング、材料の分量は毎日毎日微妙に異なるもの。前日の結果をきちんと分析し、それを基準にして天気や気温を考慮に入れ、薪の具合いを確かめながら検討する」
近ごろインテリアの演出として石釜を設置する店が増えてきたが、実をいうと彼が最初に名古屋に持ち込んだ。ほんとうに使いこなせる人間がどれだけいるか、いぶかしがる。毎日いったん自分の知識や経験をゼロに戻し、白紙の状態からパーフェクトをめざす姿勢を保っている。決して満足はしない。満足したらその時点でステップアップはないと信じている。
ピエモンテのピッツェリアで、一日にピッツァ四〇〇~六〇〇個を焼いてきたダ・カルロさん。自分なりの生地を丹念に研究し、模索し、納得ゆくものをつくりあげた。
ピッツァはスピード感と材料のバランスだと強調する。そのプライドが「イタリアの本格的ピッツァそのまんまを味わってほしい」といわせる。
したがって、イタリア人にはなじみのないタバスコは使わないし、トッピングにサラミも用いない。
日本料理の種類がたくさんあるようにイタリア料理も数知れずある。チーズの作り方ひとつとっても、北と南では異なる。その中で日本人の好みに合いそうなものをていねいに選んでつくるだけだ。少しずつその範囲を広げていって、“ピザやスパゲティ”ではない日本人が知らないイタリアンメニューを出したいと考えている。
店内はイタリアの町そのもの。石だたみの路地、テラスに見立てられた床に大きなテーブルがいくつも置かれている。オープンなヨーロッパ的様相だ。全体にシンプルな印象。
「一軒のハウスと思ってくれればいい」というだけあってラフなスタイルで食事が楽しめる。料理では妥協を許さないが、食べ方には寛容になる。ナイフとフォークでかしこまるディナーにはしたくないので、各テーブルには箸を用意している。
お客さんとはよく話をするよう心がけている。お客さんの知りたいことがあれば、何でもていねいに説明する。お客さんからも率直な感想を聞く。料理のことワインのこと、イタリアについてなど話をしているうちに、自分自身の勉強につながることも多い。どのレベルのワインを置くか、メニュー構成、食材の評判など、ストレートに反応が分かる。
自分の店をオープンしたことで初心にかえり、素直な気持ちで日ごとのステップアップにみがきが入るという。遠い将来については、まだ今のところじっくり考える余裕はない。まず基礎をきちんと固めておくことが先と考えている。
一八歳でピエモンテの町に出て以来、味を求めて突っ走ってきた。しかし、勉強すべきことは、まだまだ山のようにある。
さて、またいつものように、自家製の石釜に薪をくべ、小麦粉を練り上げる時間がやってきた。毎日がゼロからの出発、昨日よりは今日、少しでも満足できる味への挑戦が続いてゆく。文・カメラ 片山よう子
・所在地/名古屋市中区栄一‐二四‐二六パ‐ クサイドオザワ1F
・電 話/052・231・2610
一九六四年、イタリア・サルディニア島で生まれる。一二歳ですでに学業のかたわら、従兄弟が経営するピッツァとケーキの店を手伝い始める。
一八歳で本格的に勤め始め、生地の作り方を学びやがて任せてもらえることに。しかし、サルディニア島はリゾート地ということもあり店は常に繁盛、給料もよかったが、何か物足りなさを感じていた。本格的に勉強をする決意を固め、ピエモンテの町へ出る。
運よく有名ピッツェリア「ドルトーナ」に就職。ただピッツァひとすじの三年間を過ごす。死にものぐるいに会得したピッツァづくりは、現在つくるピッツァの源泉となる。
八年前、日本に渡った友人に誘われピッツァシェフとして名古屋へ。すぐ名シェフとして名前が広まり、テレビ出演なども重なる。四年前には結婚。昨年3月、ピッツェリア「DA‐CARLO」をオープンさせた。