名物酒店の店主に聞く 地酒専門「鈴伝」磯野元昭さん
――地酒の人気はますます高まっていますが、意外にブランド品を扱っているところが多いように見受けられます。もっと個性のあるものが出てきてもいいのでは。
磯野 かつてナショナルブランドが何を飲んでも淡麗甘口だった。これが最終的にお客に拒絶反応を起こさせ、地酒に行かせたところがある。ところが、地酒もまた同じように淡麗辛口の傾向になり、特徴がなくなってきました。
日本人の傾向として物真似に走るのでしょうか、鑑評会に出品したものに目の色を変えて合わせ、結局は横並びにしている。もっと飲みたいものに力を入れるべきです。
――そうした中で、これは面白いという酒がありますか。
磯野 虎ノ門店で私の気に入った「一四代」を出したところ反応が良く、みんながうまいという。飲んでも甘ったるくなく豊醇。ドライが淡麗辛口であれば、これは淡麗甘口、潤いのある酒です。
世の中がドライになる風潮にあるため、反動として潤いのある酒でバランスをとるのでしょうね。だからこうした酒が求められているんだなと感じます。
――販売士の資格を持つ酒屋の店主であり居酒屋の店主でもある磯野さんは消費者と蔵元の橋渡しをするユニークな存在ですが、そもそも地酒との出合いは。
磯野 販売士の勉強をしていた時、酒屋の特徴づけとして地酒の販売をやったのが始まりです。
私のマーケティングは川上の蔵元ではなく川下の消費者の動きです。蔵元は、自分のところの酒はうまいというのは当たり前。うまいまずいの判断をするのは川下の消費者です。
――そういう意味では虎ノ門店はお客の動き、嗜好をつかむ絶好の場ですね。
磯野 昭和32年のオープンですが、以来アンテナショップ的店として活用しています。酒屋の商売をしながら勉強しているようなもの。利き酒会やりながら客の嗜好の変化、ライフスタイルを見るのです。
昭和30年代の主役はサラリーマン。なかでも大蔵省の役人が多かったのですが、部長が今日はあっさりと冷や奴にしようといえば、横並びに冷や奴で決まりです。
ところが今は、部長は体を思ってか焼酎、若い者はビールやもっといい酒と肴を別々に頼みます。極端にいえば、五人の客が四杯飲めば二〇銘柄にもなるのです。
このように一人ひとりの価値観で選択する時代になり、お客を逃がさないようにする店の魅力づくりが求められてきています。
――料理と酒の相性がいろいろいわれているが。
磯野 基本的に酸の強いものは油物料理に、淡麗な酒には青刺しが合うといいますが、統計的な数字で決めつけたくないですね。しっかりとした理論づけが欲しいところです。
また、料理屋と居酒屋では酒が違ってきます。つまり、高級な料理になればなるほど酒が料理に勝ってはいけない。あくまでも脇役に徹し料理を引き立てるのです。
反対に居酒屋は酒が主役だが、はっきりいって今は脇役的酒が多く、居酒屋向きのものが意外にない。もっと料理のいらないうまい酒を造って欲しいですね。
――久保田会の会長をしておられますが、久保田はなかなかの人気ですね。
磯野 久保田は流通政策がうまい。ある程度行ったら抑える、供給が落ち込むのではなく、需要が引っ張る方向にもっていく新潟商法をとっています。
私も参加していますが、新潟県の朝日酒造が主催する全国久保田会は、ここ数年会員店数を減らしながら、一店当たりの取扱量を確実に増やし、結果として全体の製造石数も増加させていっています。商品は、品質、人気、稀少性の高いものとして評価を受けている。
一つの地区で五〇の酒屋があれば、一~二店が地酒の店であればいいのです。地酒は買回り品です。すぐ近くで買えたのでは魅力がなくなる、あちこち買い回るから魅力を感じるわけです。
――それにしても飲食店での値段には抵抗を感じますね。
磯野 地酒だから高く売るというのは間違い。飲食店にいくらにしなさいとはいえないが、聞かれたら店の格、サービスによって客が納得する価格にしてはどうかとアドバイスします。
――地酒ももっと良心的価格であって欲しいと思いますね。今日はどうもありがとうございました。
昭和3年、東京・四谷生まれ。江戸末期から代々続く酒屋「鈴傳」の六代目当主。
二四歳で酒屋を継ぐが、ツケが当たり前の時代に現金商売がやりたかったのと、本人がいうところの口うるさい父親から逃げ出したく、昭和32年、27歳で虎ノ門店を開業。夜は、官庁街役人に立ち飲み店として開放、以後、昼は酒屋の主人、夜は居酒屋の主人と二つの顔で地酒を売る。
休みには仲間と秩父や奥武蔵の山登りと温泉、そして山から下りて地酒の一杯を楽しむ。酒は、仕事が終わって一杯、帰宅して一杯、都合二合は飲む毎日である。現在、全国久保田会会長を務めるが、基本的に「地酒は一匹狼で取り組む仕事」を持論とする。