シェフと60分:中国料理「シノワ四季」総料理長・丁自平氏

1997.10.06 137号 3面

「聞いて教わるのではない、怒鳴られることもない、あくまでも見て学ぶ」独特の教え方が、陳健民氏の教育法だ。

わからないところがあると、つい訊ねてしまう。

「先生は教えない。自分の目で見て、自分の頭で考えた通りにやりなさい、と。失敗して向上する」というのが根底思想にある。

かつての下積み時代、洗い物と掃除とご飯炊きの毎日が続くが、失敗を恐れず、包丁、まな板とどんどん挑戦し、三年が目途とされる一通りの基本コースを一年余でクリアする。

負けん気が人一倍強い性格から、これをバネに突き進む。「結果として意外にあっけなかった」。もっと困難なものを予想していただけに、挑戦大好き人間の若いエネルギーでは食い足りなかったようだ。

人ができることをやるのではおもしろくない、それ以上にうまくなることを意識した「単純思考」でしかなかったと本人はいう。

「いろいろ難しく考えるな、一日一個覚えなさい。一年で三六五個、三年経てば一〇〇〇個の仕事がクリアできる」これが健民氏の考え方だったようだが。

大きな肝試しは、一六歳でやってきた。

大阪、仙台の店へ代理として行かざるを得ない状況になる。「相手は何も知らないからとぼけて好きにやりなさい。失敗しても人には気付かれないこと、自分でなおせばいいのです」の一言に励まされ、やりたいようにやったのが、料理人丁シェフを大きく飛躍させたようだ。

「上には誰もいないのです。自分でぶつけるしかなかった」立場は、自分自身で学ぶ方法を見つけていくしかない。

時間を作ってはあちこちへ食べに行ったり、いいと思ったものは自分流にアレンジしたりする。「よく失敗したが、失敗がわかると自分で原因究明でき、自分だけ承知して修正ができる」。

修正法の一つに、塩をあげる。

中華料理の味のかなめは塩味。「これをキチンと使えなくては何をやっても駄目。醤油が味の基本になることはないのです」。

宴会料理の場合、四〇卓を一度に仕上げるからといって醤油を単純に四〇倍にするわけにはいかない。塩、タマリなどをうまく使い、これを基準に醤油を香りづけに使う。

「こうなると芸術の世界。人に教わり、三分の一の塩、一〇分の一の砂糖とはいい切れない。その人の感性です、最終的には能力でしょうね」

塩は濃度、醤油は香り、これをうまく使い分けていくのがプロへの道といえるようだ。

「アメリカへ行き、料理も変わり、人生観も変わった」自身に驚いたという。

長い間「四川飯店」という限られた世界で育ち、成長した青春時代。思うところあり仲間達と渡米、「人のことを気にしなくて生きていける自由、極端にいえば、車を利用した場合、上半身はきちんとした洋服を着ているが、人の目に付かない下半身は何を着てもいい」、こんな気ままな生活が気に入り、東海岸一年、西海岸四年の生活を送ることになる。

あの当時、店をやろうという大きな目標を持つこともなかった。一般のコック長で二〇〇〇~三〇〇〇ドルの給料のところ、破格の五〇〇〇ドルの上に歩合として常時二〇〇〇ドル近くを稼いでいた。チャレンジ型コックにとって、客が入れば歩合が上がるシステムは、この上ないチャンス。水を得た魚の如く働き、手にした現金は、すべてばくちに使い果たしてしまう。

ラスベガスにはたびたび通い、フロアマネージャーとも知り合いになるほど。持ち金全てをすって帰ることしばしばだったという。

「どん底の生活を経験したおかげで、これ以上下がることはないと腹がすわってきました」

ばくち三昧の滞米生活も終わり、帰国後の今では、一八〇度転換し、仕事が趣味の人間に変身してしまっている。

かつてのわが身を振り返り、ハングリー精神、反骨精神が人一倍強かったと分析する。引き替え「今の若者は、おとなしい、負けん気がない、失敗を恐れている」と少々手厳しい評価。失敗しないで良いものをつくろう、普通のことを普通にやってうまくやろうという横着精神では、成長しないというわけだ。

また、多くの店のアドバイザーを引き受け、共通して感じることに、「不器用な料理人が多い」ということ。

自己満足し、自分で納得して料理を出しているが、「そういうのに限ってうまくない」。

アドバイザーとしてひとつひとつ改良案を提出するが、「すぐに調整できる器用さを持ち合わせる料理人は少ない」。とりあえず経験を積めば、自由自在に調味料も使いこなせるはず、と嘆く。これは技術の稚拙というより、変えていこうという意識の問題に関わることではなかろうか。

料理人の世界の変化と同時に、お客の嗜好の変化により「料理が横並び的になってきており、伝統の中華料理と異なった新しい流れが生まれる可能性大」とみる。自らは、「四川飯店」で学んだ伝統的手法に、アメリカで触れた広東・北京・上海などの料理を組み込ませた幅の広い中華料理を打ち出している。

文   上田喜子

カメラ 岡安秀一

一九四九年、台湾・高雄生まれ。父親の大使館勤務のため、一歳の時来日。再び帰国することなく日本に定住する。中学卒業と同時に進路を決めることになるが、中国人には、昔から学問を極める生き方と、手に職を持つ生き方の二つに一つの道があるという考え方がある。

生来勉強嫌いな息子には、コックであればどこへ行っても通用するという父親の意思のもと、知り合いを通し「四川飯店」の陳健民シェフの内弟子として見習いに入れられる。

弱冠二〇歳で健民の一番弟子として、テレビ出演、出版、料理学校講師として活躍する。二七歳でこうした華やかな世界を離れ渡米、三二歳で「重慶飯店」料理長として帰国するまで、全米各地で修業。台湾、大陸から来るコックの四川をはじめ広州、上海、北京の中国料理に触れ、それぞれの特色を生かした独自の中国料理を編み出す。帰国後、「シノワ四季」総料理長として、また、四川料理「甲子亭」、高円寺「吉華」などのアドバイザーとして活躍するかたわら、後進育成に励む。

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