横浜・山下町70番地 洋食発祥の地めぐる今昔談議
一八五三年、ペリー浦賀来航に端を発し、横浜開港および外国人居留地造成が行われ、行き交う外国人から怒涛のごとく異文化がもたらされた。今、この居留地内、山下町七〇番地が洋食文化の発祥地として、また、ホテル発祥の地として実証され、にわかに脚光を浴びてきた。そこで、伝統の洋食文化の薫りを今に引き継ぐ山下町七〇番地の住人、板倉敬子かをり商事(株)社長と発見者である「横浜学」委員の草間俊郎氏に登場願い、同地の今昔を語ってもらった。
板倉 洋食文化の幕開けであった当時は、どんな時代だったのでしょうか。
草間 一八五九年の横浜開港以来、続々と外国人が来日したが、食文化の違いから自国の食料品、料理が求められるようになり、在日外国人相手の商いが登場してきます。
その一つに、居留地の欧米人、来港した外国人のための西洋式宿屋、つまりホテルがあります。
中国・上海の英字新聞、一八六〇年3月10日付けの「ノースチャイナ・ヘラルド」によると、ホッフナーゲルが「ヨコハマホテル」名で開業広告を出しています。同年2月24日のオープン。いわば、これが日本最初のホテルということになります。
板倉 どこにあったのでしょうか。
草間 場所は、文久元年の橋本貞秀作「御開港横浜大絵図」によると、オランダ五番ナッショウ住家。つまり、横浜に来たオランダ人事業家としては五番目に当たり、前職はナッショウ号の船長だったホッフナーゲルの所有地です。
板倉 オランダの船乗りだったというホッフナーゲルさんには、何か因縁めいたものを感じます。というのは、私の祖父・作次郎は日本郵船のオランダ帆船・龍田丸の司厨長を務め、父・富治も同じ日本郵船の司厨長だったからです。
ところで、当時のホテルはどんなホテルだったのでしょうか。
草間 このヨコハマホテルに続き、次々とホテルが建設され、英字新聞に掲載された広告や宿泊者の日記などの記録から、当時のホテル事情がうかがわれます。
競合化するなか、各ホテルとも競って宿泊だけではなく、フランス人コックによるレストランメニューの充実を図ったり、リッカーストア、ボーリング、ビリヤードなどの遊技施設を設けたり、理髪店、クリーニングなどのサービスを強化したり、ホテルの原型ともいえるものをこの当時で登場させていました。
板倉 七〇番地のヨコハマホテルは、その後どう変遷するのでしょうか。
草間 一八六六年の豚屋火事がおき、居留地のほとんどの店舗は全焼し、ホテルも廃業となります。そして一八九九年、条約改正により居留地は廃止され、山下町と改名されました。
板倉 時代は下って、現在の山下町七〇番地にかをり商事が七階建てビルでオープンしたのは一九七〇年のことです。
「かをり」という名前は、日本郵船の船乗りだった父ですが、文学好きで、本居信長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」から、かぐわしいにおいを放つ山桜への想いと、香りを重んじるフランス料理の香りを楽しめる店を願って名付けたものです。
伊勢佐木町から七〇番地に越してきた当初は、閑古鳥が鳴いていました。今のように県民ホールやスタジアムもありませんし。ただ近くに県庁があることからなじんでもらおうと配達をしていましたが、決まって牛乳です。牛乳屋と間違えているのかしらと思ったほどです。
この難関を乗り越えようと知恵を絞りました。一つに、日替わりのビジネスランチを採算度外視で始めたり、当時は土・日の客が少なかったので、少しサービスをして近所の方のクラス会の勧誘をしたり、今では珍しくありませんが、ケータリングもやりました。取引先の明治屋さんの車を借りて料理を運ぶのです。
草間 たゆまぬアイデアの駆使と努力の積み重ねで今日を築かれたんですね。
板倉 昭和50年ごろに大きな転機がありました。当時の長洲知事に「トリュフ」が気に入られたことから名前が広がり、職人では生産が追いつかず、ついに私がオリジナルトリュフを作ってしまいました。続いてレーズンサンドを一年がかりで商品化したこともあります。
食文化とは、食を通して大輪の花を咲かせ、明日の幸福に向かって努力することと思っています。本居信長と母の言葉が交差するのですが、「一国の領主を願っては一国の領主になれない。世界の領主を願って初めて一国の領主になれる」の言葉どおり夢は大きく持ちたいですね。
まず、居留地七〇番地から日本全国へ洋食文化が広まったことを記す碑を建て、それから、ここ横浜から世界に向けて食を通しての大輪の花を咲かせていきたいと思っております。
草間 横浜市も食文化にスポットを当て始めており、また、市民の関心も高まってきています。きっと願いはかなえられると確信しております。
*
草間俊郎(くさま・としろう)氏、神奈川県立栄養短大名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科修了。神奈川県教育庁に勤務後、県立栄養短大教授を務め、現職に至る。現在、都市国家時代における都市のあり方を考える会「横浜学」の連絡会議委員を務め、主に食文化部門を担当、文献をもとに知られざる横浜の発掘活動をする。このほか、横浜食文化研究会代表として、地元横浜の食に関わる研究者としても知られている。
板倉敬子(いたくら・けいこ)氏、かをり商事(株)(横浜市中区山下町七〇番地、電話045・681・4401)代表取締役社長。聖心女子大卒業後、祖父が興したレストラン「かをり」を継ぐ。引き継いだレストランは山下町七〇番地。かつては外国人居留地にあり、日本における洋食、およびホテルの発祥地と実証されている。現在、この地から日本全国に洋食文化が花開いた記しとして記念碑建立運動に奔走する。また次世紀には、国際都市横浜から世界に向けて日本の食文化を発信していきたいと夢をふくらます。











