業界人の人生劇場:坂東太郎代表取締役・青谷洋治氏(上)

1998.04.20 150号 7面

(株)坂東太郎の青谷洋治社長は、茨城県八千代町の専業農家で四人兄弟の長男として生まれ、少年のころから一家の柱となってきた。

「父親が戦争で体を壊し母一人で働いていましたから、物心ついた時にはすでに家業を手伝っていました。小学生、中学生時は、朝4時に起きて登校まで仕事、下校後もすぐに仕事という日々でしたね」

「中学卒業後は兄弟が下にいましたから農業一辺倒でした。後、母親が他界し、農業だけでは生活が成り立たず、それで夜7時から夜中の1時まで近所のそば屋で働きはじめました。これが飲食業界入りのきっかけですね」

まさに働きづめの毎日。遊ぶ時間など皆無。遊びたい時は、その日の仕込みを寝ずに(夜中に)済ませ、時間を捻出したという。

妹の協力で23歳念願の独立

そんな生活を続けていたある日、独立の機会が突然訪れる。

「少年のころから事業意欲旺盛だったのですが、家業がこのような状態だから半ば諦めていました。ところがある日、妹が『お兄さんはよくここまで家族を守ってくれた。私が高校をやめて働くから、今度はお兄さんが好きなことを追いかけて』といってくれまして。私が、そば店の修業を終え、独立するだけの技量を持っているのを見て、妹が気をつかってくれたわけです。涙が出るほどうれしかったですね。このとき初めて、私はわがままをさせてもらいました」

昭和49年の二三歳時、そば店の店主として独立。ためてきた事業意欲は一気に爆発する。

「隣の境町で店を始めたのですが、とにもかくにも人口が少ない。二万七〇〇〇人ぐらいだから、来店客が見込めないわけです。そこで出前を強化しようと考えまして。手打ち麺を機械打ち麺に替えて量産体制を整え、アルバイトを三〇人集めてチラシを一ヵ月に一万枚ほど配りました。それも単にポストへ配るのでなく、必ず玄関で相手に接し『お願いします』とあいさつするように指導したわけです。するとこれが大反響。一日に一五〇~二〇〇件の注文が殺到して、月商は七〇〇万円前後に跳ね上がりました。当時の売上げとしては予想以上の数字でしたね。一日中、そばを打ってはゆでての繰り返しでしたよ」

死亡事故恐れ

て出前を自粛

宅配ビジネスの先べんともいえるユニークなアイデアで、営業は順風満帆。後に二店舗を出店し、三店舗で展開していた平成元年、突然転機が訪れる。

「出前が主力だから、一店舗につきバイク七台と車二台を保有していたのですが、ある日、大事故を二度も連続で起こしてしまいまして。このままやってたら必ず死亡事故が起こるな、と思い、出前を自粛しました。すると売上げが激減。来店客で勝負できる店づくりが必要と感じ、業態転換に乗り出したわけです」

55年、そば、うどん、すしを売り物とするFRタイプの「ばんどう太郎」をオープンする。

「そば店を長く営んできたから、そば店の長所短所はよく分かっていました。伝統食としてニーズが根強い半面、若者客が少なく夜の集客力も弱い。若手の従業員も定着しない。若者の集客力を強め、ディナー需要に応えることをコンセプトに、ばんどう太郎をオープンしました」

衝撃「うちのすしやめて」

くら替えしたばんどう太郎では試行錯誤の連続。そうした中、ある日、他社の和風FRに見学に行ったところ、衝撃的な出来事に遭遇する。

「オーダー時にウエートレスが『うちのすしはやめたほうがいいですよ』と助言するわけです。瞬時に、自分の店でも同じことが起きているのでは、と思いましてね。川上である経営者の都合で作ったメニューだとあり得るな、と。まじめな従業員は、お客さんを大切にするあまり正直に助言してしまう。これは大問題だと気がついたわけです」

「早速その月、従業員の給料袋に二万円分の無料チケットを同封してみました。するとチケットの回収率が一〇%にも満たない。勝手知ったる従業員は無料でも、ばんどう太郎の料理は食べたくない、ということが十分すぎるほど分かりました。これでは売れるわけがありません。従業員を満足納得させる方策が急務となったわけです」

わが家で作るよりおいしい

方策は、従業員一人ひとりとじかに接するほか、皆を集めた泊まり込みのディスカッションで進めた。

「結局、従業員が自信を持ってお客にすすめられるおいしい料理を作らなければ駄目だ、ということになりまして、メニューを全面的に見直しました。例えばご飯。とびきりおいしいご飯を提供するためには、一日使用分だけを当日精米する。漬け物は既製品に頼らず手作りに徹する。料理の完成度を高めることで、とにかく従業員の支持獲得に努めました」

「すると数ヵ月後、店舗に行ってみると勤務を終えた従業員が身銭で食事をしている。聞くと、『家よりも、ここのほうがおいしいし楽しいから』と答えるではありませんか」

「このころからですね。従業員がはつらつとし、店舗が活気づきはじめたのは」

(次号につづく)

◆青谷洋治(あおや・ようじ)/昭和26年、茨城県出身の四六歳。専業農家の長男として生まれ少年のころから農業に従事、かたわらそば店で修業。そば店店主として独立した後、(株)坂東太郎を起こす。趣味はマラソンと最近始めたピアノ。ホノルルマラソンでは五時間三〇分で完走、ピアノは週二回一時間ずつけいこに通う。酒はつきあい程度。たばこは吸わない。

◆(株)坂東太郎/代表取締役青谷洋治/本部所在地=茨城県猿島郡総和町高野五四〇-三、電話0280・93・0180/設立=昭和61年11月/資本金=四〇〇〇万円/従業員数=四〇〇人(社員一〇〇人)/年商=二三億円(平成9年度)/店舗数=「ばんどう太郎」(そば、うどん、すし)七店舗、「かつ太郎」(とんかつ)九店舗、ほか三店舗

“熱き温かさ”“母さんの心”“父の励まし”をテーマに掲げる郊外型和食チェーン企業。お客の喜びと従業員の豊かさを追求しながら、地域貢献を目指す新興外食企業として注目されている。昨今の郊外型とんかつ店ブームは、同社の「かつ太郎」から始まっている。

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