シェフと60分:ラ・コンテア・ディ・カナメオーナーシェフ・扇要氏

1998.07.06 155号 19面

二五%ほど出資しているイタリアンレストラン「アルディラ」も昨年のオープン以来順調だが、この7月にはいよいよ自分の店が開店する。その名も「ラ・コンテア・ディ・カナメ」。イタリア修業中、一番思い出の多い「ラ・コンテア・ディ・ネーベ」の屋号と自分の名前の要(かなめ)を組み合わせた、正真正銘、自分の店。店にかける思いを聞いてみた。

「二〇坪ほどの細長いワインセラーのような小さな店なんですが、あくまでも料理の味にこだわった店。狭いながらもワインは年代ものを含めて一二〇本あまり置きます」

年に一、二度、イタリアにおいしいワインを調達に出かける。この5月にも行って来たばかり。

「料理はコテコテのイタリアンではなく、洋風会席のニュアンスも加える、私流のイタリア料理と思って下さい」

本場イタリアでの七年間の経験をベースにしたオーソドックスな料理に、日本人の感覚を生かした新しい発想の料理を提供する。

「イタリア料理と東洋料理の共通点は多いんです。素材の味を大切に、煮る焼くの調理法が中心になる点もそうだし、パスタも中国料理に似てますしね」。小規模の店からイメージされるワインバーではなく、あくまでも料理主体。日本人が食べたことのないおいしいイタリア料理を味わってほしいと目を輝かす。

「食材は瓶・缶物以外はイタリア産にこだわらず、国産も含め地球規模でいい素材を選びます」

最近、知多半島のハーブを栽培する若い農家のグループとの出会いもあり、タイアップも計画中という。

性格は負けず嫌い

学校を卒業して最初に入ったのが神戸の高給フランス料理店。その店にいた約一〇年間が彼の人生に大きな影響を与えた。

まずオーナーがイタリア帰りで、当時イタリアンといえばピザとパスタぐらいしかなかった時代に、イタリア料理への関心を深めた。また当時、何十人もいる年齢の近いライバルたちから一歩も二歩も前に抜きんでるには、朝は一〇分、一五分でも早起きして仕込み場所を確保することから始めなければならなかった。

負けず嫌いの性格は、知識と技量を猛スピードで身につけ、二三歳にしてベテランのシェフを差し置きビッグスリーの仲間入りをするまでに。「今から思えばみんな年齢が近かったことで競争心をあおられ、切磋琢磨できたんでしょうね」

しかし自信と裏腹のプレッシャーも大きかった。「常に背伸びをしていたし、油断していると抜かれるかもしれないという気持ちで、とにかく勉強はしました」

村の楽団が出迎え

イタリア修業時代、はじめの三軒は無給。一年半がすぎたころから二、三万円ほどもらえた。七軒目は北イタリアのネーベという村にある「ラ・コンテア・ディ・ネーベ」へ。生活のこともあり、扇さんはイタリアの労働許可をもらい本格的に腰を落ち着けて働くことを決意。この時はじめて一〇万円の給料を手にした。

そこはもともとワイナリーで主人がギャルソンウエーター、奥さんがコックで、料理はいわば家庭料理の延長だった。主人は全土的な評価を得て中央にその名を広めたい、躍り出たい気持ちを持っていて、その役を扇さんに託すのである。まるで弟のように信頼し、才能を信じてくれた。

さて二年後、期待を担った彼は、とうとう一つ星レストランに昇格させるという快挙を果たしてしまう。

「そこでの暮らしは楽しかったですね。ワインの産地でおいしいワインはふんだんにあるし、イタリア人は気さくでおしゃべり好き。休みといえば仲間とワインを飲みながらワイワイ騒ぐのが楽しみで」と、人なつこそうな笑みを浮かべる。きっと、イタリア修業が成功したのは人に好かれるその性格だったのだろう。

「ネーベ」の村人からどれほど信頼と友好の情を抱かれていたか。九一年の帰国から二年後、村を訪れた扇さんに村の楽団がファンファーレとともに出迎えた。扇さんの功績がいかに偉大なものだったかを物語る話だ。

攻めの姿勢は健在

「日本では夢かもしれませんが、料理旅館のイタリア版のような家を田舎に持ちたいですね」。遠方から扇のつくる料理が食べたいと、わざわざやってくる。彼らのために簡単な部屋を用意しているが、しかしあくまでもおいしい料理を目的にしてもらう。

「生きるための食事ではなく、リラックスしてエンジョイできる空間と時間を提供するための料理。私が座長ってことですね」

四一歳。攻めの姿勢は衰えることなくますます健在。次々に新しい環境をクリエートし、自由自在に枝葉を伸ばしてゆく。全国にその名も知れ渡る大ベテランの料理人だが、ご本人はイタリア人気質そのままにいたっておおらかに人生をおう歌している。

◆プロフィル

高校卒業後、調理師学校に一年。その後神戸のフランス料理店に入り持ち前の負けん気と努力で、二三歳の時本店のシェフに昇格。初任給五万円だった給料もぐんと上がり、全面的に任されるまでに。

しかし、二七歳で大きな転機が訪れる。イタリアの有名レストランへ一〇〇通以上にのぼる手紙を出し続けた結果、やっと来た一通のOKの返事を頼りにイタリアへ旅立つのである。

滞在中、最初はゼロだった給料も七軒目を経るころにはイタリア人を上回るまでに。信頼もされた。しかし父親の死で急きょ帰国することになる。和歌山のホテルに三年、その後名古屋「よし川エノテカ」を経て一九九七年10月、ビッレリア「アルディラ」の共同経営にかかわる。

この7月には念願だった自分の店「ラ・コンテア・ディ・カナメ」をオープン。今までの経験と感性が実を結ぶ。東海イタリア料理協会会長。大阪府出身、四一歳。

文   片山よう子

カメラ 岡安 秀一

・所在地/名古屋市東区東桜1-14-5 イースタンビル北館1F

・電話/052-971-9131

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