これでいいのか辛口!チェーンストアにもの申す(28)「サイゼリヤ」
群馬県は高崎駅前に高島屋百貨店「高島屋高崎店」がある。東京のど真ん中の、東急百貨店が閉店するくらい都市構造が変化しているのだから、この高島屋もその例外ではなく、お客さまは郊外へ郊外へと流れてしまい、今はにぎわった過去の面影も薄く寂しい限りの駅前風景なのである。
高島屋といえどもこの状況では、専門店やテナントがどんどん撤退する中で、上階の食堂街を維持するのは大変と見える。ちょいと昼飯を食べに立ち寄ってみたら、異様な光景を発見した。撤退した食堂・レストランの後釜に、今をときめくチェーンストアレストランの風雲児「サイゼリヤ」が入居していたのだ。もともと、サイゼリヤというチェーン店は、こうした撤退物件が大のお得意でもあるのだが…。
サイゼリヤの新店舗は、ほとんどがこの「撤退テナントの後釜」であるといってもいい。金のかかる飲食店の設備(厨房と内装)は、すべて前のテナントがやってくれているのだから、新規出店にほとんど金が掛からない。少し手直しすればよいのだ。
本来内装などは、その店のイメージが大切だから撤退物件といえどもかなり手を入れるものだが、聞くところによるとサイゼリヤは、それも大家側(ここでは恐らく高島屋)に負担させて出店するらしい。メニューの安いイタリアンレストランサイゼリヤは、それだけ女性の集客に一役買うし、百貨店にしてもだれも入り手のいない食堂街を放っておくわけにはいかないのだろう。
サイゼリヤにしても、それだけ初期投資がめちゃくちゃに少なくてすむし、損益分岐点売上高も低くて良い。だから、効率は良いし株価も高い。こうして費用の掛からないサイゼリヤの、最近の業績、それに伴なう躍進ぶりはすごいの一言である。それを表にしてみた。
それによれば、何と経常利益が約一〇%というすごい高収益企業である。だから、経済新聞やその手の雑誌が「サイゼリヤは、何てすごい会社だ!」と絶賛をする。それも分かるような気持ちになる。
しかし、そのジャーナリストの人たちが一度でもサイゼリヤに行ったとしたなら、プライドの高い人たちだから、恐らくその「効率の高さ故」に腹を立てて二度と行かないと言い出すのが目に見える。
何故、一〇%もの経常利益が出るのか?
何も難しい財務分析をやろうというのではない。良く考えてみれば、簡単なことである。
まず、飲食店はだいたい四つの費用からなっている。すなわち、原材料費(食材)、人件費、光熱費、そして家賃・減価償却費である。効率が良いのは、この中のいずれかが低いからである。
当然考えられるのは、一番コストの高い原材料費であるが、スパゲティが四五〇~五八〇円、ピザが三八〇~四八〇円、サラダが三八〇~五八〇円、リゾットが三八〇~四八〇円、ハンバーグが四八〇~六八〇円と、メニュー価格は驚異的に安い。
だから原材料費を削るのは至難の技だ。ということは、食材費用の次に大きい人件費を削っているに違いない。
また撤退物件の後釜という居抜き出店では、出店費用はほんの少しだけだろうし、家賃も有利に交渉できるはずである。つまり食材費以外は徹底的に切り詰めた、けちけち状態で出店し運営しているはずなのだ。
結論から言えば、人件費を極度に切り詰めるとろくなことにならない。まず、気配りがなくサービスが悪くなる。忙しくて、従業員から笑顔が失われる。笑顔どころか、忙しくて疲れるのでとげとげしい雰囲気が店全体を覆う。こうなると、接客も何もあったものではない。そして設備や内装に金を掛けないので、使い勝手が悪く仕事しても疲れるのだ。
人がいないから、掃除などは二の次だ。それがどんどんと汚れを増してゆき、働く環境を悪化させる。そうなると、働く者のモラルは大幅後退だ。同時に、そんなお店のしくみに絶望したお客さまが、どんどん離れてゆく。その結果は、お店の衰退につながるのである。
ジャーナリストも証券アナリストも、一度荒れたサイゼリヤに足を伸ばして、食材費以外はすべて切り捨てるというこのローコストなやり方を、身を持って体験すべきなのだ。そうすると、今のようなサイゼリヤ絶賛記事は書けないはずなのだが…。
新人のウエートレスの、パタパタという靴音が響く。服装規定なのだろうが、足に合わない靴を履き、要領を得ない新人パートが走り回る。店長のような若い男性社員が、ほとんどの客席のオーダーを取っている。新人にかまっている暇はなさそうだ。
この店の平日昼の人員は、フロアは店長・新人パートのたった二人。客席は、おおよそ五〇席。午後0時45分ごろに満席、バッシング(テーブルの下げ物)が追いつかず、キッチン(恐らく洗い場)の人間までフロアに動員されている。
この時点で、キッチンでは一人で調理していたようだ。あまりの小人数なので、筆者は入店を戸惑った。ここにいるほとんどのお客さまは、恐らくサイゼリヤを知らない。でもここは高島屋だから、それなりにサービスが良く、おいしいものを出してくれるのだろうと期待しているはずである。
店に入ると、やけにどたばたしていると感じる。お昼時だから仕方ない、とあきらめる。いつまでたっても案内してくれない。まだ片付いていない近くのテーブルに座ろうとすると、お皿を抱えた店長らしい人が、「お客さまこちらへどうぞ!」と、まるで怒鳴るようにメニューをテーブルに置いて去ってゆく。
しょうがないからそこに座ると、急いでテーブルをふいたためなのか、まだ前の客がテーブルにこぼしたスパゲティのソースが残っている。それをティッシュでふき取り、メニューブックを開く。でもなかなか注文を取りに来ない。相変わらず店内はどたばた。何か場違いなところに来たなと思いはじめたころ、一人の中年夫人がレジの前に立った。
「あの~、三〇分くらい前にあの席にいたものなんですけれど、時計を忘れたんですが…ありますか?」と店長らしき男性に話しかけている。
男性は、こんなに忙しいのに迷惑な!、という感じがここまで伝わってくるくらい目を吊り上げて、「ちょっと今忙しいので…」と言い訳をし、手に抱えた皿を見せつけるように急ぎ足でキッチンに引っ込んでしまった。
当の中年夫人は、ここは天下の高島屋だから、きっと親切な店員が「奥さま!この時計では?」と応えてくれると期待しているのだが、お店の対応はまるでそっけない。
「あの~、これじゃないですか?」と、人手がないので洗い場から出て来てバッシング(片づけ)をしていたおばさんが、中年夫人に時計を差し出している。
「ありがとうございます!」と受けとった夫人は、このおばさんの親切に何度も何度も頭を下げ感謝していた。
このやりとりを見ていて考えた。結局、この店、サイゼリヤの経費を思いっきり切り捨てる仕組みでは、こうしたチョッとした気配りサービスはできない。また、それをしようとはしていないのだろう。しかし、一見この無駄なような心温まるサービスこそ、お客さまの満足を誘うサービスなのだ。
メニューの値段の安さだけでは、お客さまの満足は得られない。こうした快いサービスこそが、料理の味さえも変えてしまうものなのだ。
お客さまは、腹いっぱい食べるためだけに足を運ばない。そのことが何にも分かっていない、いや、分かろうとしないこのレストランチェーンに未来があるのなら、われわれは「そんな味気ない未来などいらない」と断言できるのではないだろうか。
(仮面ライター)